「竹の春、竹の秋」

5.

 ホテルの絨毯を踏みしめて歩いた。黒い革靴の硬い底から薫を押し上げるかのようだった。喫茶室の階段に足を掛ければ目敏いウェイターが滑るように寄って来て気持ちよい距離を保ってニコリと微笑む。問われたことに機械的に答えた。営業先で身に着けた処世術が、こんなときに役に立つのが大人なのだろうかと頭の片隅で思うけれど、薫の意識はほとんど、背後で苛立ちを覚えている男の気配にばかり行っていた。

 一面の窓は小さな和風の中庭を見せている。低めのテーブルセットは、ちょうど窓際に配された地袋のような棚の奥行き分だけ窓から離れていて、ひとつひとつのテーブルセットがぽっかりと浮いた個室のように寛げるのだった。

 ソファチェアに深々と腰を掛けて窓の上方を仰ぐと、青々とした竹がふわりと撓った。「竹の春」という言葉を思い出す。それは、高校時代の古文の時間に習った言葉だった。竹の葉は、春になると枯れ落ちる。春に生えたたけのこは秋になると一人前の竹になって青々と茂る。季節を錯誤しているようでありながら自然の理に適っているというのが、薫には胸が痛くなるほど印象的だった。

 一文字一文字丁寧にチョークを走らせる古文の教師の指の節。紺色のベストから覗くニットのネクタイのストライプの配色の愛らしさや、袖まくりをしたチェックのワイシャツの皺、教卓の上に体重をかけて教科書を広げるときに筋の出る腕。「竹の春、竹の秋」と、説明した男性教師の喉仏。

 薫はその授業中に一筋涙を零した。自然の理に適わない──自分は、生まれてきて良かったのだろうかと、不意に思ったその瞬間に、何もかもがやるせなく思えて自分でも知らぬ間に涙をこぼした。頬が一筋濡れたことに気づかぬまま薫は黒板の残像を凝視していた。男性教師は、教科書を読みながらゆっくりと教室を一回りして、薫の横を通るときに、そっと頭に手を置いた。教科書を読み続けて教師はまた教壇に戻った。

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、男性教師は笑いながら宿題を言い渡して出て行った。

 自然の理に適う生き方を選ぼうとして選べるものならば、たとえそれが自分や誰かに対する「裏切り」になったとしても、それを選びたい。そのことで自分がどんな罪悪感に苛まれるのだとしても、生きていることそのものに感じる罪悪感に比べたらきっと大したものではないと思った。

 誰もが、そうであろうか。
 愛するものを手に入れることが適わない生き方しかできない者は、誰でも。
 自分がそうであるように、
 この男も。

 タクミは少し痩せたように見えた。明るい陽光の差すホテルの喫茶室にはどこか不釣合いな風情で男がふたり、膝を突き合わせている。

 タクミは睨むような表情で窓の外に目をやっていた。薫を見ない。ほんの少しの苛立ちを滲ませた彼の目は、多分、雅な中庭など目にしてはいない。タクミが見やる庭に薫も目を向けて、撓る青竹のそよぐ音が、分厚いガラスを隔てて聞こえるはずもないのに聞こえたような気がした。


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