想い涙
悲しみの大きさ
とにかく気持ち悪いという思いが頭を占めていた。
体を起こして口を押さえると、少々手荒に背中をさすってくれる手があった。
「吐きそう?」
その手の主を見上げる。
小動物のようなぱっちりとした目をした女性は、首を傾げてこちらを覗き込んでいた。
小柄な、少女のような女性。
「誰……?」
「意識ははっきりしてるみたいね」
「え、あの」
ぱたぱたとスリッパを鳴らして小走りして、女はドアを少しだけ開いた。
ベッドから出ようと横に寝返りを打とうとするも、犬型の抱き枕に妨害される。
女は隙間に顔を入れるようにして、あなた、と外で待機しているらしい夫を呼んだ。
「未花ちゃん」
移動させようと持ち上げた抱き枕が床に転がり落ちた。
中に入ってきたのは、先日、部屋まで柚穂を運んでくれた男だった。
「室野さん。あなたの家だったんですか」
室野さんはベッドまで椅子を引きずって、向かい合って座った。
「気分はどう?」
「少し気持ち悪いですけど、それ以外は何ともないです」
「ならよかった」
背後に立つ奥さんに、室野さんは水と消化に良い食べ物を持ってくるように頼む。
「いいです、悪いですし」
「気にしなくて良いの。うち男ばっかりだから、久しぶりに女の子と話せて嬉しいし」
奥さんは室野さんの頭を軽く叩く。
「それに、愛里さんに未花ちゃんのことを頼まれてるんだ」
「愛里に?どうして?」
「どうしてって、未花ちゃんがわからないことは俺にもわからないよ」
そもそも、なぜ室野の部屋にいるのか、そこから事情がわからなかった。
「なんでわたし……」
ここにいるんですか、と言い切る前に、奥さんに遮られた。
「もうこんな時間?バスが来ちゃう」
つられて壁に掛けられた時計を見やる。
柚穂の母親から電話を受けて家に行ってからそうは時間が経っていないようだったけれど、違和感があった。
今まで眠っていたのにまだ夕方に差し掛かるくらいの時間というのは、信じがたい。
奥さんは再びスリッパを鳴らしながら部屋を出て行った。
「バス?」
「幼稚園の送迎バス……息子を迎えに行ったんだ」
「他にもお子さんがいるんですね」
「違う!」
叫んで、室野さんはばつが悪そうに息を吐いた。
「精神的にまいってるんだ」
「そう、なんですか」
我が子が突然いなくなってしまったのだから、現実を受け止めきれなくなってもむりはない。
サイドテーブルに置かれた、空の写真立てを手に取る。
天使たちがデザインされたアンティーク調の写真立ては、写真を入れなくても十分インテリアとして成立していたけれど、どこか違和感があった。
「気づいたらなくなってたんだ」
納得した。
陶製のフレームはよく見ればところどころ塗装が禿げていて、写真を入れるガラス部分には細かな傷がいくつか付いているにも関わらず、埃は全くかぶっていなかった。
長い間、大切にされてきた形跡はあるのに、中身の写真がないことが頭に引っかかったのだろう。
「裕樹が、息子がいなくなったってことは理解できているんだ。でも信じたくないから、毎日ああやって迎えに行ってずっと玄関に座っているんだ」
「連れ戻しに行かなくて良いんですか?」
「心配してくれてありがとう。暗くなる頃には諦めて戻ってくるから、いいんだ」
あの小さな背中がぽつりと玄関に佇んでいる様を想像して、胸が痛んだ。
柚穂だけじゃない。
もうみんな、限界だった。
「愛里に頼めば、記憶を操作してくれますよ」
「やっぱり、怖じ気づいた?」
「いえ。でも」
その先を続けることはできなかった。
死にたかったのに。
柚穂の言葉が耳から離れない。
わたしはまだ、たぶん、がんばれる。
自分に言い聞かせるけれど、ああならないという保障はどこにもなかった。
「どうして、わたしがここに?」
話を変えても、室野さんは追求しようとはしなかった。
毎日こんな奥さんの姿を目にしているのに、絶対に息子のことを忘れたくないとはもう言い切れないのだろう。
「昨日の夜遅く、愛里さんがここへ運んできたんだ。事情を説明している暇はないけど、寝ているだけだから落ち着くまで置いてやってほしいって」
「昨日?」
違和感の正体は、それだった。
この夕方は、柚穂の家を訪れた数時間後の夕方ではなく、翌日の夕方だった。
思い出したように一日近く寝ていたツケが回って来たのか、頭痛がした。
「昨日、何があったの?」
「昨日ですか?」
説明しようとしても、霞がかかったように記憶はぼんやりとしていた。
柚穂の家を後にして、愛里に手を引かれるままに走ったところまでは鮮明に記憶に残っているのに、そこから先のことがどうやっても思い出せなかった。
記憶を、操作されたのかもしれない。
掻きむしるように腕を掻くと、室野さんに慌てて腕をほどかれた。
「何をしてるんだ!」
「だって」
自分が、自分でなくなる。
ふいに、柚穂に自殺を図らせたのは、大切な人を失った悲しみだけではなかったのだと気づいた。
「わたしたちが生きる意味って、何」
生かされるだけの人生。
わたしたちはただのおもちゃ。
「准と一緒に消えたかった!」
そしてもう二度と、こんな世界に生まれつかなければよかった。
「俺もいろいろ考えたよ。たとえば息子が死んだとして、どっちの方がましだったろうって」
言われてみて、准がもし消えたのではなく死んだとしたら、と考えてみる。
わたしはずっと悲しみを抱えて生きていくのだろうと、ぼんやりと想像した。
「子供の頃、実家で飼ってた犬が死んだんだ。俺が生まれるよりも前に家に居着いてたからって、いつもばかにされて追っかけ回されてた。だから、正直言って、あまり好きじゃなかった。でも死んでから毎日、夜中に突然目が覚めるようになって、母さんに相談したんだ。そうしたら、太郎……犬の名前なんだけど、太郎がいなくなったからだろうって。そんなに好きじゃなかったのに、おかしいだろう?」
「でも一緒に暮らしてたわけだったし、寂しくないわけはないんじゃ」
「そんなんじゃないんだ。太郎はずっと、俺と一緒に寝てくれてたんだよ。俺が寝たのを見計らって俺のところに来て、隣で一緒に寝て。朝になると俺が起きる前に部屋から出て行くっていうのを、俺が生まれてから毎日、繰り返してたんだってさ。あいつなりに俺のことを守らないとって思ってたんだろうな」
「いい話ですね」
「いい話、かあ。俺にとっては思い出したくない話ナンバーワンなんだけどな」
「何でですか」
「悔しかったから。あいつは俺のこと大事に思ってくれてたのに、何にも返してやれなかったなって」
犬にとっては室野さんのことが好きだったのに、室野さんは嫌っていた。
事実を知っていれば優しくなれていたかもしれないと思うのは、当然のことだ。
「この話したのって、未花ちゃんで二人目なんだ。一人目は奥さん。あいつとは大学で知り合ったんだけど、しばらく見かけない時期があったんだ。一月後くらいに会ったときに理由を聞いてみたら、なんて言ったと思う?」
「体調を崩したとか?」
「全然違う。生まれた頃から飼ってた犬が死んで、悲しくて学校来れなかったんだってさ」
犬は家族同然だという人もいるし、奥さんの性格も考えればなおさら、理解できなくもなかった。
「そのときに、慰めるためにさっきの話をしたんだよ。俺よりはましなんだからいいだろうって」
「それでどうなったんですか?」
「気づいたら、俺の方がぼろ泣きしてた」
思わず吹き出すと、室野さんはむきになって言い訳した。
「俺だって、未だに何で泣いたのかよくわからないんだ。ずいぶん昔の話だったし、今さら泣く理由もないし。そしたらあいつ、たぶん自分でも覚えてないんだろうけど、『悲しみも幸せもその人によって尺度が違うものだから、たとえば縁日で買った金魚を死なせてしまった子供の悲しみと、今の自分たちの悲しみには差なんてない』って言ったんだ」
「あの、わたしよくわからないんですけど」
「俺も正直、そのたとえはよくわかんなかったけどさ。さっきのどっちがましなんだろうって話を考えてたときに、あいつが言ってたことを思い出したんだ。結局のところ、どっちにしたって、悲しみをずっと背負っていく悲しみと、悲しむことすらできない悲しみは比べることなんてできないって思った」
「じゃあどっちだっていいってことですか?」
「……余談だけど、その話がきっかけで、俺たちつきあい始めたんだ」
「だから?」
「太郎を失った悲しみがなかったら、今の俺っていなかったんだなって思った。もし息子が消えたんじゃなくて死んだとして、悲しいけど、それを背負っていくことが俺の人生だったんだ」
まだ、何を言わんとしているのか理解できなかった。
「いつか気づくよ、創造主様っていうのも。世界が消えるなら、それもまたしかたがないことだって。俺たちは幸せなだけじゃ生きていけないんだ」
室野さんの口調は諦めにも似ていた。
「このまま受け入れるんですか?」
「そうなるな。あいつの親って、田舎で旅館やってるんだ。近くの山にでも、どうせ壊されるんだろうけど墓みたいなのをつくって、俺たちなりに息子のこと供養して……記憶は消してもらう」
「協力するって言ったじゃないですか!」
「あれだけでかい口叩いておいて情けないって、自分でもわかってる!」
気迫に押されて縮こまったわたしに、室野さんは小さく謝罪した。
「悪いけど、俺の家族は息子だけじゃないんだ。もうこれ以上、あいつが苦しんでるのに何もしてやれないのは耐えられない。でも、こんなに愛している息子のことをあいつが忘れたら、俺はあいつを許せない。だからいっそ、俺も忘れようと思う」
最低の男だと自分を罵る室野さんに、写真立てを差し出した。
「最低な人はそもそも、そんなことで悩みもしませんよ」
室野さんは写真立てを受け取り、抱き締めた。
「つくづくわたしたちって、不器用な生き物ですね」
室野さんの目が届かないようにこっそりと、枕元に置かれた焦げ茶のショルダーバックから携帯を引っ張り出す。
待ち受け画面を確かめて、そっと中に戻した。
恥ずかしいからやめろと、二人でプリクラを、写真さえ頑なに撮ろうとしなかった准。そんなわたしたちを見かねて、文化祭の最中に友達が隠し撮りしてくれたものは、二人が写る唯一の写真だった。
携帯購入時から待ち受けを占拠し続けていたその写真に代わって、木の枝に止まる小鳥が小首を傾げていた。
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