Distopia


高く低く、それは鳴り響く。
そこは、どこまでも深い暗闇だった。
いや、闇と言うよりもっと禍々しい、一条の光も望めない地獄の底のように、全てが漆黒に塗り潰されていた。
風は凪いでいた。
いや、初めから存在さえしないかのようだった。
「ぃやだっ!来るな…っ!」
その中を、まろぶようにして男が何かから逃げる。
悲痛なる叫びも、闇に飲まれて聞く者はなく。
否、違う。
皆聞いていた。
聞きながら嘲笑い、追い詰めていく。
不思議なことに、一歩先の光も望めない状況にありながら、漆黒の中、男の姿のみはっきりと浮かび上がる。
光を発するでなく、強いて言うなら『塗り潰し損ねた』ように。
汗にまみれ、泥の中を這いずる様にして逃げ惑う男の様を、『ソレら』は忠実に従いながら、責め立てる。
不安を。
恐怖を。
絶望を。
「来るなっ!来るなぁ…っ!」
何も見えぬ闇の中、振り払う仕草は滑稽極まりなかった。
男が何かに足をとられ、無様に転ぶ。
刹那、闇が凄絶に笑う。
無様にも涙でグシャグシャになった男を侮蔑するように。
凝った闇が、ゆったりと迫る。
走って逃げても、その先は闇。
男が自ら飛び込んでくるのを待つ、獣のあぎとのようだ。
否、そこはすでにあぎと。
あとはズタズタに引き裂かれ、咀嚼されるだけ。
「たすっ…たすけ…っ」
呟きは、清き旋律に掻き消される。
オルゴールの音は止まらない。
それどころか、いっそう高く深く鳴り響く。
まさに、葬送の音。
味わったこともない恐怖に身は竦み、膝が笑ってうまく立ち上がる事もままならない。
這うようにして逃げようとする様は、あの少女のようで。
氷の冷たい手が、心臓を握り込むような感覚に肺が酸素を求めて喘ぐ。
『ほぉら、足が消えるぞ?』
ついっと。
左膝を何かが撫でた。
「っ!?」
耳元で囁きが聞こえた刹那。
舐めるように気配が近付き、衣擦れが耳朶を打つよりも早く。
「ひ、ぎゃあぁあぁあっ」
闇が、群がる。
何が起きたのか、男には理解が出来なかった。
ただはっきりしていたのは、凄まじい激痛と。
…ぐちゃ…ぴちゃ…ずちゅ…ぱきっ…
何かが膝から下を噛み砕き、嚥下する音。
得体の知れぬものが、その身を喰らう咀嚼音。
「ぎあぁあ゙あ゙あ゙っ」
姿も形もない『闇』が食らい付く。
いっそ一思いに断ち切ってくれと喚きたくなる喉から迸るのは、ただ悲鳴だけ。
肉を食み、血を啜り、筋も骨も噛み砕く。
口も舌も牙も在りはしないのに、獣がそうするように喰われ、貪られる。
消えゆく膝下を押さえつけるように、大腿を大きな爪が突き刺し引き裂き切り裂く。
傍から見ればこの闇の世界で、世界自体が塗り残しを塗り潰しにかかったかのようだった。
ゆっくりと、闇色が纏りつく男の膝下が消えていく。
もがきながら必死に、足をばたつかせ闇を振り払おうとする。
だが。
「ぃいやだあぁあ゙っ!」
もがけばもがく程に見えぬ牙は深く深く、肉を抉り取っていく。
視覚的には映らないが、男は己の足の喪失を気絶も許されぬ激痛の中、思い知った。
『なんで泣き喚く?』
高過ぎもせず低すぎもしない本来心地良さを醸すはずの声音は、無数の氷の刃のように、男の魂を撫でる。
…くすくす…
声に呼応するように、オルゴールが僅かに楽しげに音を揺らす。
「もぉっやめ…っ」
涙と鼻水と涎で汚れきった男は、見えない相手を探して懇願する。
『なぜ?』
それを嘲笑うように、すぐ傍で佇む気配がした。
衣擦れと共に花のような淡い甘い香りが、男の鼻腔をくすぐった。
『君が手にかけたあの子たちは、君のせいでその言葉も紡げなかったのに?』
けして咎める様子などの問いかけではないと言うのに、目には映らない鋭い切っ先を突きつけられているようで。
心は既に臨界点にあった。
恐怖に、心の底にあった本音が弾け飛ぶ。
「あいつらはっ死んでも構わないんだっ!あいつらは、獲物だったからっ!」
それは、男にとっての身勝手な『当然』。
欲望の底の傲慢な本能。
痛みさえ瞬間忘れ、男は問いかけてきた主を恐怖さえ混ぜた眼差しで睨み付ける。
『弱者は狩られても仕方ないと?』
「そうだっ自然の、摂理だっ!」
『そうかぁ、残念。』
言葉が温度を変える。
言葉自体が殺傷力を備えたような、刃が研ぎ澄まされて行くのがわかる。
突きつけるのでは無く、明確な殺意がそこにはあった。
『じゃあぁ、これもぉ…自然の摂理だねぇ。』
相変わらず、瞳は見えない。
にも関わらず、視線が四肢に食いつくように絡む。
楽しそうに、くつくつと喉を鳴らすのに…視線は凍てつく怒りを宿す。
瞬次。
闇が男の喉を薙ぐ。
「ぎぃっ」
悲鳴は、途切れ。
代わりとでもいうかのように、ぐぱっと鮮血が大輪を咲かせた。
黒衣の姿が男の傍にある事に気づいた時には、それどころではなかった。
だが、喉を掻き切ったらしい得物は、その手にはない。
ただ、傍に佇み、冷たい視線だけが注がれる。
『君は本当に愚かだ。救いようがぁない。』
目深に被ったフードの端から蠱惑的に歪められた唇が覗く。
あたかも魅了するかのように…。
『君には声も必要ない。僕はもう、些細な慈悲さえ与える気はしない。』
人の声とは思えぬほど冷酷に、笑みを刻んだままに告げる。
…その瞳は、永久凍土から切り出した氷のように何の温度も宿さず、男を見おろす。
もはや怒りの光さえ見出だすことは叶わず。
『誰にその存在を知られることなく、闇に塗り潰されて尚、朽ちることなく永遠に後悔するといい。』
死なんて安息、君には不要だ。
告げられた言葉に、男は絶望より深い恐怖に染まる。
孤独の中で気を失うことも、狂うことも、ましてや死ぬことも永遠に赦されない。
己が身の苛まれる激痛と、喪失。
叫びを上げたくとも、もはやその声を発する器官はない。
『一番苦しくて、一番酷い方法がいいね。』
ぱちんと、指の鳴る音がした。
それはイタズラっ子が何か名案でも思い付いたかのような仕草だった。
『視覚は遺してあげよう。見えないと、君の状態が分からないでしょ?』
くすくすと邪気など一切無いかのような囁きと同時に、男の上、空中に鏡のようなものが現れる。
男はそこに映されたものを見て瞬次に目を閉じた。
許されるなら、顔ごと背けたかったが、闇の塊がそれを阻む。
…と。
『目は閉じちゃダメだぁよ。…あぁそうか。目蓋があるから閉じるんだね。』
残酷な宣言が唇から零れた刹那、瞳は庇うものを失った。
「ぅ゙うぅがぁ゙あぁーっ!」
潰された喉からは轢き潰されたような風の抜ける音しか紡がれない。
深い深い鉄の臭いが、充満する。
男が狩ってきた獲物と同じものなのに、少しも魅力的でない臭い。
恐怖と、圧倒的な絶望感に涙が溢れる。
『それは何?僅かな懺悔?微塵ほどの後悔?それとも、理不尽だと思える現状への怒り?』
耳元に囁きかける声に、もはや反応できるほど男に余裕などありはしなかった。
上げられぬ悲鳴を撒き散らしながら、仰向けで闇に喰らわれる男と向かい合うように宙に現れた、鏡のようなものが男に見せ付ける。
四肢の無くなっていく様を。


男は、はたと突然唐突に気が付いた。
耳に聞こえるのは、己の荒い息。
走るような鼓動。
まるで悪い夢から覚めたような、そんな感覚だった。
歯の奥がカチカチと鳴っている。
冷たい汗が、額を頬を背中を伝っていくのがわかる。
辺りは漆黒だった。
一瞬、夜なのかと息を吐いたが、すぐに脳裏がそれを否定した。
それは夜の闇よりさらに深い、まぶたを何十にも覆うより尚暗い記憶の中の光さえ呼び起こせない、純然たる黒がそこにあった。
どちらが天か地か、それさえも解らなくなるような漆黒の世界。
これは夢なのだろうか。
カラカラに乾いた喉が、潤いを求めて嚥下しようと蠢く。
夢なら覚めてくれと男は己の頬を叩いた。
と。
自分に手がある事に気付いた。
震える指先が、確かめるように己を辿っていく。
欠けた部分はない。
爪の一枚も剥がれていない。
痛みも嘘のようにない。
では、今の今まで味わった恐怖も痛みも、ただの夢だったというのだろうか。
わずかな安堵と共に、言い知れない不安と恐怖が込み上げる。
この場にいるのはまずい、本能的にそう思い立ち上がる。
勿論、行くあてなどありはしない。
方向だって定かではない、だが。
逃げ出したかった。
立ち上がった足は、気を抜くとすぐに砕けそうになったが。
そんな事にはかまっていられなかった。
本能が、危険を叫んでいる。
立って走れ、そう告げている。
男は己の内なる声に従い、走り出した。
ぞくり。
背筋が何かを察知したように泡立つ。
クスクスと、笑い声が聞こえた気がした。
遠くから、何か聞こえている気がする。
長く細く、繊細でいて物悲しく。
冷たい汗が、背中を伝う。
走る右足に、何かが突如絡みついた。
「ぅあ!」
引きずられるようにして引き倒され、男は反射的にそれを見た。
だが、そこには何もない。
ないが、確かに絡みついて少しずつ少しずつ、力が加わっていく。
それは意思を持って、徐々に締め上げていく。
「やめ…」
哀願は最後までは紡がれなかった。
ごきん。
「ぎあぁああ!」
悲鳴にのたうつ腕にも、何かが絡みつく。
絡みつき、血しぶきが上がった。
絶叫を上げようと開いた口にも、闇が流れ込む。
声が詰まり、舌があらぬ方に捩上げられる。
喉の奥、ぶつんという音を聞いた気がした。


緋色の涙を流し、失った目蓋を閉じようと眼球が忙しなく動く。
『…滑稽だねぇ。』
何度も繰り返し、同じ事を体験する。
途切れる事無く、何度も四肢を無くしそれを激痛の中で見続けるのだ、命が本当の意味で擦り潰れるまで。
くすくすと笑い、オルゴールを胸元に抱いて踵を返した。
高らかに謳うオルゴールに囁くように。
『よい夢を…。』
憐れみにも似た嘲笑を口許に刻み、僅かな衣擦れが残る。
一瞬、掠めるように一瞥を男に投げるが、それも刹那の事。
興味を無くしたかのように静かに、歩きだす。
追いかけるように、男の呻きが一段と高くなったが。
『…努々忘れることなかれ…』
ぱくん。
小気味良い音と一緒に、オルゴールの蓋が閉じられメロディーが途切れる。
瞬次、カーテンでも引かれるように、闇が二人の間を遮断した。
あとは…。
そこで起きたことなど初めから無かったかのように、もはや振り返る事はなかった。
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