黒猫の昼下がり


◆◆◆


 ぽんぽんと身体が揺れる。暖かくって、落ち着く感覚。小さい頃、お母さんに寝付くまで背中を撫でられた、あのときと同じだ。

 まだ、……ないの…

 けれど、これはなんだか真逆に感じる。眠りに誘うのではなく、まるで起こすような。


「もうすぐ日が暮れてしまうよ、さあ起きて 。」


 ……え?


 導かれるように目を覚ませば、視界に入るのは眩しいほどの人口の光。どこかの部屋内なんだと分かる。部屋、へや……


「……え、っと。」


 理解しようと無理やりに思考を引っ張り出す。なんだっけ、どこだろう此処。今朝のこと、オーディションのこと、雨が降りだしたこと、黒猫が過って転んで、それから。


 ぐらぐらと視界が歪む。

 ……そうだ、わたし海に行こうとして。


 私の隣に腰を下ろし、どこからかブランケットを私の膝に掛けてくれる。その暖かい仕草に、乏しい脳でも、彼こそがあのとき雨に濡れた私に声をかけてくれた人なのだと理解した。


「ごめん。日が暮れるといえど、やはり起こすべきではなかったね。」

「い、いえ……そんな。」


 じわじわと思い出す記憶に情けない、子供じゃないんだから。羞恥心で顔を膝に埋める。

 古紙の香りが鼻いっぱいに広がるこの部屋はどうやら喫茶のような場所らしい。本棚に囲まれたアンティーク風なソファに腰をかけて、頂いたお茶を啜る私。

 図々しいにもほどがある、と自身の頬を打ちたい。濡れているからとタオルまで拝借して、乾燥機にかけるからと服も借りた。さすがに下着はそのままだけど、りょーちゃんのだって着たことない、指先だけちょんと出る白いシャツに、心臓が忙しく鼓動する。

 少し離れた椅子には、お兄さんが本を片手にゆったりと腰をかけている。その姿さえこの空間に溶け込み過ぎていて、なんかもう眩しい。


「あの、……ありがとうございます。」


 遠目からでも分かる整った顔に、ほっそりとしたシルエットはなんだかどこかで見た俳優のようで。

 部屋を流れるゆったりとした曲に、ぼーっと意識が遠のく。雨に濡れたこと、泣きつかれたことも影響しているんだろう。カップに注がれた紅茶を飲み終えた頃、私の瞼は再び重さを感じる。

 トクントクンと落ちついた心拍に、なんだか急に懐かしくなって聞かれてもいない言葉が唇から撫で落ちる。


「私、夢があるんです。」


 ぽろっと飛び出た言葉。突然のそれに、本を読んでいたであろうお兄さんは、ぱたんとそれを閉じて、私へ顔を向ける。


「夢?」


 目を閉じて、記憶を探るように呼吸を整える。瞼の裏に移る、遠い日の私。


「……はい。」


「小さい頃から、ずっと憧れてた人がいて。その人になりたかったんです。」


 テレビとか雑誌とかラジオとか、その人が主演するたびに狂ったように追っかけて。欠かさずチェックして。

 ひどく焦がれていた。魅せられていた。

 憧れは、いつの日か「なりたい」という夢に代わっていて。


「……けど、それも叶わないみたい。」


 ハハと渇いた笑みを浮かべれば、再び目元に涙が溜まる。気付かれないようにと急いでシャツの袖口で拭えば、心にぽっかりと穴が空いたように虚しくなった。


「バカですよね、この歳になってまだ夢見てて。」

「……そんなことないよ。」


 否定の言葉が胸に刺さる。


「そんなことあるんです。……だってアイドルですよ、オーディションにすら受からないのにね。」


 はは、笑っちゃうでしょう?と無理やりに笑みを作ったのに。お兄さんは苦しそうに私を見るだけだった。ああそっか、見苦しい、ってことか。

 そりゃそうだ、こんな負け犬の言葉。聞くだけ不愉快だろう。

 突然自分の言動が恥ずかしくなって、バカらしくなって、言葉を丸め込む。


「なんかすみません。いらないことペラペラと、シャツありがとうございます。あと紅茶も、美味しかったです。」


 華がないと言われた笑顔でお兄さんと向き合う。瞳を見ることがこわかったから、視線は反らして何も入っていないカップの底を見つめる。

 目を合わせてしまえば、なんだか嘘がバレてしまうような気がして。心の奥の汚いとこ、お兄さんには見られたくなかったから。


「にゃーん。」


 ふと、どこかで聴いた鳴き声。


「あ……」


 過ったネコ。雨の中すり寄ってきたネコ。あのときの黒猫だ。

 


「彼がね、キミを見つけたんだよ。」



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