黒猫の昼下がり



お兄さんが「おいで」と手を叩くと、私の足元から離れてゆく黒猫。ごろごろと喉を鳴らしては、ゆっくりとまばたきを繰り返す。


「お兄さんの、ネコだったんですね。」


 顎を撫でる指先が心地よいのか、黒猫はゆったりとしっぽを揺らして微睡む。毛並みだって綺麗だし、こうして遠目で見ると、なにかの映画のワンシーンみたいだ。


「ここに住み着いているというだけで、僕の猫というわけではないよ。ごはんの提供はしているけどね。」

「……そう、なんですか。」


 それって飼ってるってことじゃないのか、と思ったけれど、言葉を飲み込む。


「彼は基本、自由なんだよ。きまぐれなのさ。今こうして僕に撫でられていても、数分後にはまたどこかへ旅に行ってしまうのだから。」


 数週間やってこない時もあるしね、と聞いて思わず声を出して驚いてしまった。それはやっぱり、飼っているとは言えないのかもしれない。


「それにね、彼は幸を運ぶんだ。」

「え?」

「黒猫は、不吉の象徴と思われがちだけれど、
僕はそうは思わない。所詮は古来からの迷信なのさ。」


 知ってる。地域によっては、幸せの象徴となっていて、江戸時代ではこの国でだってそうだったこと。
 

「それにね、キミを見つけたのも彼なんだよ。」


 にゃあと私へ寄り添ってくる黒猫に、疑問符を浮かべる。そういえばさっきもそう言ってた気がする。


「私を、この子が?」

「足に泥がついていたようでね、足跡をついて行ったんだ。そしたらキミが……」


 傘も挿さずに雨に打たれていたものだから。


「さすがに驚いたかな。」

「なな……す、すみません!! あれは、その……」


 語尾が薄れてゆく声。優しく微笑むお兄さんに、とても目を合わせていられなくて、視線を落とす。

 自分でも分からないことってあるんだなあと客観してる自分がいる。雨に打たれて、私は何を考えていたんだろう?

 足は海を目指していた。何のために?


「さっきの話に戻ってしまうのだけれど。」

「え……」

「なれると思うよ、キミなら。」


 にっこりと目を細めるお兄さん。

 いつだかの夕暮れに、そっと手を差しのべて無邪気に笑う男の子。


「だから諦めないで欲しい。叶わないなんて、悲しいこと、言わないで欲しいんだ。」


 見透かすような瞳は、私の不安や迷いすべてを脱ぐってくれるような


「フィクションではないんだし、簡単にはいかないだろう。それでも、僕はキミに叶えて欲しい、幼い頃からのその夢を。」


 慣れない土地で、迷子になってしまった私を導いてくれた腕。独りじゃないよと安心させてくれた、やさしい言葉。


「さて、もうずいぶんと暗くなってきたね。親御さんも心配しているんじゃないかな?」


 欠伸をする黒猫を、お兄さんが抱き上げる。ふと本棚の合間にある窓を覗けば、確かに外は暗い。


「え、あ、いえ、平気です。」

「そうかい?」

「はい、一人暮らしなので。」


 ブランケットを折り畳み、ソファから立ち上がり、帰る支度をしようと身動ぎをすれば、お兄さんが鞄を渡してくれる。


「一人暮らしか。なら尚更、僕が心配だな。」

「え……?」

「送って行くよ。キミさえ良ければだけど。」


 さらりと台詞を言えるのは、慣れているからだろうか。見惚れてしまうほどのお誘いだけど、さすがに申し訳なく思って断る。


「お気遣いありがとうございます。お気持ちだけで嬉しいです。」


 そうお辞儀をすれば、お兄さんは困ったように笑った。


「にゃーん。」


 黒猫の頭をふわりと撫でて、さよならと告げる。


「フラれちゃったかな。ね、ヤマト。」

「え……?」

「彼の名前さ。毛が黒いだろう?」

「にゃあ。」


 黒い猫のヤマト。なるほど安易だ。


「ヤマトくんって言うんだ。ふふ、バイバイ。」


 名前を呼んで再び撫でれば、すっと瞳を細めるヤマト。人懐っこいネコだなあ、と改めて愛嬌が湧いた。

 カランコロンと扉を開ければ、つぅっと冷えた風が肌に刺さる。


「この辺は物騒ではないし、大丈夫だと思うけど。気をつけて帰ってね。」

「あ、ハイ!ありがとうございます!」


 カランコロンと扉を開ければ、つぅっと冷えた風が肌に刺さる。案外寒かった、と身震いすると、ポンと肩が重くなった。


「これ、着てきなよ。」


 ちょっと待ってて、と言われてかけられたのは、ふわふわとした白いカーディガン。絶対これ高級なやつだ。


「え、いや、悪いです!」

「いいのいいの。僕のじゃないし。」


 僕のじゃないのにお粗末な、とは思ったけれど、口実だと思えば気が楽になった。


「そ、それじゃあ借ります!」

「え?」

「そ、それで、シャツと一緒に返しに来ます。だから……!!」


 恐る恐る見上げれば、形の良い口許が綺麗な弧を描いた。


「うん、分かった。待ってる。」


 不思議なものだ。朝はひどく落ち込んでいたのに、世界が変わって見える。


「は、ハイ!」



 黒猫は不幸の象徴?

 ううん、違う。少なくとも私には。


 どん底だと思っていたのは、自分だけ。

 見方を変えれば、世界はこんなにも輝くんだ。



「あ」



 ……そういえば、お兄さんの名前を聞くの忘れてた。




to be continued…
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