天才に恋をした
いよいよ本試験が始まる少し前、宮崎先生と夜のロンドンで会った。


母ちゃんはここぞとばかりに国を飛び出し、

イタリアへ行ってしまった。


「おお、たくましく成られましたね」

俺を見るなり、先生はそう言った。



どう呼べばいいのかな。

戸籍上は親父なんだけど。



「すっかり青年ですね」

「先生もお元気そうで」

「ええ、私はもう。丈夫だけが取り柄ですから」



そうとう堅いパンを先生はものともせずに、食べている。



「ワッダーパークには、教え子がおります」


そこから、まったく知らない名前を列挙された。

一応うなずいてはおくけど、苗…覚えといてくれよ。


「あの、式もできなくてすみません」

「いつでも出来るでしょう」

「苗の母親にはやっぱり会えないでしょうか」

「そうですね…会うことは問題ないと思いますが…さて。ワタシは恨まれておりますから。連絡先だけ、お教えしましょう」


良かった。

なにか、やっぱり落ち着かないんだよな。


「貴枝ちゃんは、苗のことを知らないんですか?」


先生は首をすこし傾げた。

「養父母がどう言っているものやら……あれは家内の親族ですから」


先生が目線を落とした。


「貴枝ちゃんの父親が誰か知ってるんですね」


先生が驚いたように目を上げた。


「これは、これは…さすが村瀬さんの秘蔵っ子ですね」


先生が息を吐いた。


「ワタシの研究室にいた同僚で、心当たりはあります。

が、彼の行方はとうに知れないのです。

家内がまだ正気でいた頃には、自宅へ来ることもありましたが、貴枝のことが露見したころには、もうまったく」


苗は意外と真剣に聴いている。

貴枝ちゃんのことは、苗にとっても特別なんだ。



先生が目を細めた。

「ワタシは愚鈍な人間ですから、真咲くんのような利発な息子を持てたことは、非常に幸いです」


照れる…でも嬉しい。


「先生は天才だって、いつも父は言ってます」


先生は苦笑いで、首を横に振った。

「今思えば…あのような政情の国へ苗を連れていったこと、深く反省しております。

また、ワタクシ自身、あの村へ行かなければ、痛ましい犠牲を出すことなく済んだのではないかと……今更ながらに感じるのです。

すべて私の欲深さが生んだ結末です」


人の話し声が音楽のように聴こえる。

食器が運ばれる音も心なしかリズミカルだ。

ロンドンの片隅で、自分が結婚して、義理の父と話すところなんて、想像もしてなかった。

生きるってことは、いつだって想像を越えている。



「親父は…あ、村瀬の父は、先生に会って自分が変わったと言っていました。

親に言われて、しぶしぶ跡を継いで、ハッキリとは言わないけど、母とも政略結婚だったらしいし。

苗が家に来るまで、両親は別居してたんです。

だけど、先生と会って自分の人生を肯定的に見れるようになったって言ってました。

実際、母も帰ってきたし、家族が集まるようになったんです。

みんな先生のお陰です」



先生が微笑んだ。

子供みたいに、くすぐったそうに。

やっぱり、苗に似てる。


「そのように嬉しいことを言ってもらったのは、久しぶりです。

そう……村瀬さんに、

『先生にホレた』と、そう言ってもらって以来です」


先生が時計に目をやった。


「都会にいると時間が過ぎるのが早い。空が見えないせいでしょうかね。あの国は今頃、暁の星の頃でしょうか」


会計してくれた先生にお礼を言って、そこで別れた。



ふっと苗を見た。


……震えてる?



「寒いのか?」

「寒い」

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