気持ちの行方【壁ドン企画】
言葉にならない気持ち。
原田果穂は製薬会社の研究所の総務課に勤務して今年で2年目になる。総務課のメンバーはみな穏やかで、プライベートでも親しくできる友人もでき、仕事にも慣れ、順調な社会人生活を送っている。
毎日の仕事にやりがいも感じているし、友人とおいしいランチのお店を探したりといった日常のちょっとした事も楽しい。
…周りの人達が声を揃えて言う一点の問題を除いけば果穂は問題のない普通の社員だと思う。
「果穂!また断ったの?」
果穂より2才年上の同期で親友の林美里が果穂のディスクの隣の椅子に座って頭を抱えた。
「…うん。」
「しかも相手はあの宮野さんだって⁉︎断る理由なんてどこにもないじゃない」
宮野とは、果穂や美里と同期にあたる28才の研究員でさわやかな見た目、温厚な性格、仕事の的確さを兼ね備えた男性で、社内で彼を狙っている女性は多い。
果穂達は同期入社なので、他の同期入社メンバーと共になにかと理由をつけては定期的に集まる事も多く、そんなつきあいの中で果穂も宮野のいい所をたくさん知っている。優しくて、決して押しつけがましいとこがなくて、気配りがうまくて、笑顔が素敵で、話も面白い。
果穂自身もそんな宮野の事を嫌いではない。むしろ好感をもっていると言ってもいいだろう。
でも、恋愛感情をもって恋人としてつきあうという事になると、ふと疑問を感じてしまったのだ。
( ー私は宮野さんの事をちゃんと好き?)
同期の仲間としてのつきあいはそれなりの頻度であるし、宮野の事は嫌いではない。でも宮野の事を果穂は全くそういう目で見たことがない。
そんな不誠実な状態で宮野の気持ちには答えられないと思った。

「原田、お前宮野の事も振ったんだって?」
総務部の居室に会議を終え戻ってきた課長が笑いを堪えるように果穂に声をかけてきた。
他の総務部のメンバーもみな宮野に同情的だ。
「課長がご存知ということは、研究所全体にもう話が広まっていますね…」
果穂はため息をついた。
「ああ。しかし、原田はどんな相手ならいいんだ?」
「…それが…誰かとつきあう事がどういう事なのかわからないんです。相手の方と同じだけの想いがないとおつきあいする相手の方に失礼な気がして。…そうすると、自分の気持ちがわからなくなるんです…」
果穂が困ったように言うと、部内の同僚たちはあきれたように果穂を見た。
「原田を好きにはなりたくないわね」
そんな皮肉な言葉をかけられたが、やはり果穂には他の異性を特別に自分が好きになるということがどういう事か、ぴんとこない。
…自分の中にある感情のどこかが壊れているように感じることがある。けれど、本当に果穂にはわからないのだ。

昼休みを告げる鐘が鳴ると、果穂はディスクのノートPCの電源を落とした。今日は美里と3期入社年度が上の田中綾と3人揃って総務課主任の佐伯彩也子に少しお値段のはる中華料理店のランチをごちそうしてもらう約束なのだ。

女性でありながら33才という早さで主任のポジションを務める彩也子が
「さあ存分にお食べなさい。ここの中華はどれも美味しいわよ」
とにっこりと後輩3人にメニュー表を手渡す。彩也子の言う通り、どのメニューも美味しそうだ。目移りしつつ各々注文を決めると、彩也子が手早く店員に注文した。
そして、果穂が今一番触れて欲しくない話題に彩也子は迷いなく触れた。
「原田、宮野の事を昨日振ったんだって?午前中に会議で会った研究員から聞かれたんだけれど本当?」
果穂は、あわてて綾と美里に助けを求める目線を送ったが、彩也子にとってはそんな果穂の行動はなんの意味も持たない。
「原田。どうなのよ?」
…観念して昨夜の事を彩也子に話す以外の道はないようだ。
運ばれてきたランチを食べながら、果穂は昨夜の事を彩也子に話しはじめた。
昨夜は美里も含めた同期での飲み会があったのだ。同期の1人の結婚が決まったお祝いでみなで盛り上がった。平日の夜ということもあり、いつもより早く会はお開きになった。…ここまでは美里も一緒にいたので知っている話だ。
それぞれみなが帰宅路につく時に、果穂は宮野に酔い覚ましに少し歩かないかと誘われた。果穂も昨夜は珍しくいつもより少し多くお酒を飲んでいたので、宮野の申し出に快諾した。
二人で、駅までの道をあれこれ話しながら歩いた。…もう少しで駅に着くというところで、宮野が急に足を止めた。果穂が立ち止まった宮野に気がつき振り返ると宮野は真っ直ぐに果穂の目を見て果穂の事がすきだと言った。果穂は宮野になんと答えればいいのか困惑し、宮野に踵を返すと振り返らずに駅に向かって走った。
…おそらくその場面を偶然会社の人間に見られていて、今朝果穂が宮野を振ったという話が研究所に広まったのだろう。

「うわ…果穂それはいくらなんでもないわ…」
普段は果穂に同情的な事も多い綾が頭を抱えた。
「最悪」
美里も同様に顔をしかめた。
ふたりに予想以上に責められ果穂は困惑した。
「ねえ、原田。原田って入社してからかなりの数の告白をされてると私は記憶してるんだけれど、毎回恋愛から逃げてない?」
彩也子が果穂に言った。
「…主任から見ると私は逃げているように見えますか?」果穂は彩也子を見つめて問いかけた。
「主任。私、どんな気持ちになれば相手とつきあいたいと思えるのかがわからないんです。…宮野さんの事も嫌いなわけではないんです。でも、嫌いじゃないっていう理由だけでおつきあいをしてしまっていいのかな?って…」
「なるほどねえ。」
彩也子は、失礼。と一言添えてから煙草に火をつけて吸い込むと少し間を置いてから
「あなたたち今夜時間空けて。…そうねえ。時間は19時。お店はここで」
店の場所をスケジュール帳に彩也子は書き込み、そのページをためらうことなく破ると3人に手渡した。彩也子には3人の予定を聞く気など初めからないらしい。

果穂に達は約束の19時の少し前に彩也子の指定した店に着いた。
その店は外観も室内も大人の雰囲気で、店内は全て個室になっていて間違えなく自分達には縁のない店だった。彩也子の名前を店員に伝えると、店員は「ご案内致します」と、果穂たちを目的の部屋に案内した。
部屋に入るとそこには既にくつろいだ彩也子がいて
「よし。逃げずにちゃんときたわね」
と満足げに頷いた。 個室に用意されているおしぼりや食器を見ると、どうも果穂達以外にも誰かがくるのを待っている様子だった。
「主任は素敵なお店を沢山よくご存知ですね」綾が店内を見回して彩也子に言った。
「そうかもね。合コンや夫の仕事のつきあいでよく使うのよ。こういうお店」
彩也子はそう答えた。彩也子は子供はいないが結婚5年目の既婚者だ。
「主任合コンって…⁉︎」
美里が慌てて尋ねると、彩也子はあーと頷くと「安心していいわよ。夫公認だから。…ほら、私の夫ってまあ官庁のお役人でしょ?同僚の中には中々女性との出会いが少なくて悩んでいてる人が多いのよ。それで夫公認で私は出会いのない夫の悩める同僚と自分の会社の知り合いやら友人に頼まれて出会いの場をセッティングして仕切っているの」
と楽しそうににっこりと笑った。
彩也子は合コンのセッティングをしていると言った。…という事は、これからくるであろう人達は合コンの相手という事なのだろうか?
果穂がぼーっとそんな事を考えていると
「原田。あんたが今日の主役。覚悟なさい。原田以外の二人は存分に好きに楽しんでね。ここはね、お料理もかなり美味しいから」
彩也子はハッキリと果穂にのみ最終宣告を告げたのだった。

程なくして、個室の扉をノックする音がした。
「はい。お通しして」
彩也子が淀みなく答えると個室の扉が店員によって開けられて、男性が3人個室に入ってきた。
「⁉︎」
果穂は目を疑った。男性のひとりが宮野だったのだ。
各々のメンバーは彩也子は指定した席に座わる。
「この子達は私の夫の大学の後輩くん達。君たちは夫からだいたいの話は聞いているわよね?この子達は私の職場のかわいい後輩よ。よろしくね」
しっかりと男性陣に美里と綾を紹介すると彩也子は手元のグラスを手に「それでは。」と、グラスを傾けた。

果穂の隣の席に、宮野を彩也子は座らせた。困惑して彩也子に視線を送っても、彩也子は知らん顔だ。
困った…。昨日の今日で何を話したらいいんだろう。
…仕方がないので、とりあえずお酒でも飲んでこの場を凌ぐしかないと思い果穂は先ほどワインが注がれたグラスに手を伸ばそうとした。
「⁉︎」
その時、机の下でまわりにわからないようにこっそりと宮野が果穂の左手を握った。二人は机の下で軽く手を繋いだ。
宮野は、何事もないかのように手を繋いでいない方の手でグラスを持つと、涼しい顔でワインを口にした。
果穂はこの状態をどうしたらいいのかわからずにどきまぎしながら、仕方なく宮野に習ってワインを一口飲んだ。
「昨日の、誰かに見られていたみたいだな。想定外の事で…今日は困ったよ」 宮野が口を開いた。
「…そのようですね。私も驚きました」
果穂も宮野の意見に同調した。果穂も宮野も今日は1日散々噂にされたのでお互いに疲れていた。
会話が途切れ途切れになってしまう気まずさを誤魔化すように果穂はいつもより早いペースでグラスを傾けた。握ぎられた手が熱を持って、どうしても宮野を意識してしまう。
「…宮野さん、私…パウダールームにいきたいんですけれど…」
「うん」
宮野はあっさりと繋いでいた手を離した。果穂は席を立ち目的地のパウダールームに向かった。ワインの酔いのせいなのか、宮野と繋いでいた手の熱さのせいかひどく頭がくらくらした。

「宮野さん…?」
パウダールームから個室に戻ろうと廊下に出ると少し先の場所に宮野の姿があった。果穂の事を宮野は待っていたのだろうか?そんな事をぐるぐる考えていると、宮野に果穂は勢いよく引き寄せられた。本当に一瞬の事だった。気がつくと果穂の体の場所が入れ替わり宮野に壁に背中をおしつけられていて、さらに果穂が逃げる事が出来ないように右手を掴み肩の位置で壁に抑えられ逃げる事ができない。
「…っ!宮野さん⁉︎」
果穂は顔が赤くなるのを感じた。
宮野は果穂に顔を近づけるとくすりと笑った。そしてあきらかにわざと果穂の耳に息がかかるほどの近さに唇をよせ
「少しはどきどきする?」
と、昨日と同じ真っ直ぐな目で果穂の瞳を覗き込んだ。
果穂の頭はくらくらして、その場に立っていられず、その場にしゃがみこんだ。
果穂の顔を心配そうに宮野は覗き込み
「だいじょうぶ?」
と、どこかうれしそうに果穂に尋ねる。
「…はい…大丈夫です」
と果穂は答えるがどうしても一人で立つことができず、仕方なく宮野の力を借りてようやく立ち上がった。宮野に支えられているので、距離の近さもさることながら、どうしても宮野を意識してしまい宮野に目がいってしまう。宮野は、果穂の瞳を覗き込むと
「君の事が好きだ。…昨日、君は俺に返事をせずに逃げた。だからもう一度聞く。俺は君が好きだ。俺とつきあってくれないか?」
宮野の想いのこもった瞳に果穂は自らの瞳も一緒に絡み取られてしまうのではないかと思った。ーそれでもいいと思った。
果穂の口から自然に言葉があふれた。
「…はい。私も宮野さんを好きなんだと思います。でも私本当に…自分の気持ちに鈍いようで…。…つきあうとかどうしたらいいのかもわからなくて…それで昨日の事はなかった事にしようと逃げ出したんです…こんな私でも本当にいいんですか?」
果穂が宮野の瞳を不安そうに覗き込みながら答えると宮野は
「うん。俺はそんな君がいい」
と、とびっきりの笑顔を見せた。
「俺と一緒に少しずつはじめよう?」
といいながら宮野は果穂を力強く抱きしめた。果穂は戸惑いながら宮野の背中に、そっと手をまわした。








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