契約違反
キャンバスの向こうから声がかけられて、ハッとする。


「別に、何もないです」

「・・・今日は仕上げの日だぞ、集中しろ」



イーゼルの向こうから覗く、彼の眼鏡。

その奥にある、強い光を持った瞳に、何度、胸を射抜かれただろうか。


「お疲れ様。よく頑張ったな」


こうして労ってくれる優しさに、何度、癒されただろうか。


「よし、上手く出来たぞ。最高だ」


時折見せてくれる、満足げな可愛い笑顔にも――――


「あー、もしもし?―――――いや。今、終わったところだ・・・」


そして、外に出ていく彼の姿を、何度、切ない思いで見送っただろうか。


スマホを手に廊下に出ていく彼。

その後ろ姿が、夜街に消えていく背中と重なる。

また、出掛けるんだ。

一作仕上げると、彼は必ず出掛けて行く。

今夜の相手は、誰だろう・・・。


でも、そんな想いをするのも今日で最後。

私は、彼に想いを告げる。

長年の不毛な恋を終わらせて、ここを出ていくのだ。

「赤いガーベラの女」が仕上がった日が最後の日、そう決心していた。



私は、纏めた荷物を持って深呼吸をする。

何日も前から計画していたこと。

整理しまくった結果、荷物はカバン一個に収まってくれた。


八畳程の自室だった部屋を見回したあと廊下に出る。

煮詰まった彼が苛立ち紛れに付けた柱の傷。

私のドジでつけてしまった絵の具のシミがある床。

そこかしこにある、彼と暮らした日々の痕跡をゆっくり辿る。

哀しかったこと嬉しかったこと楽しかったこと、

いろんな想いが蘇って胸に迫ってくる。


もう、最後なんだ――――
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