碧い人魚の海
 アートは一度息を吸い込んで、それからゆっくりと言葉をつないだ。我知らず人魚に頼み込んでいた、ささやかなこの願いが、この人自身に対しても、少しでも伝わればいいと思いながら。
「ジゼルさま。あなたがご自分自身を傷つけること以外でしたら、ぼくはどんなことにでも従いましょう」

 少しの沈黙の後、ささやくような小さな声で彼女は答えた。
「ときおりわたくしは、自分自身をとても疎ましく感じるのよ」
「存じております。それでも、日々は過ぎていきます。あすはきょうよりも穏やかな日が巡ってくると、そう信じて祈ることなら、できるのではないですか?」
「きょうのあなたは、何か変だわ。いいえ、変なのはきっとわたくしの方ね。あなたの前で、取り乱してしまったりしたから……」

 もちろんアートは自分が彼女に対し、いつもと違う態度をとってしまっていることを自覚している。それでも彼はただ首を横に振る。
「今夜一晩ぐらいは亡くなられた方の小さな娘に戻ってその死を悼んでも、罰は当たらないのではないでしようか」
「いいえ、アーティ。やはりわたくしには、父を許すことはできないの」
 貴婦人は、低いがどこか激しい口調になって、そう言い返した。


 ほの暗い燭台のあかりの中、彼女の淡い茶色の瞳にもう一つの火がともる。心を映し出す暗い情熱の焔だ。
 ジゼルはアートから身を離し、姿勢を正してきちんと座り直し、感情を抑えた低い声で、話し始めた。

「貴族のつながりってね、アーティ、あなたも知っているでしょうけど、国を越えてお互いに血族としてつながっているの。魔力を持っているものも多いし、そういった力を使って秘密裏に情報を交わし合ったりしている。
 死んだ夫は武人だったわ。先の戦争で幾度も武勲を立てた人で、人望も厚かった。けれども爵位はなかったし、父はそれが気に入らなかったみたいだった。
 彼は、あと少しで戦争が終結するっていうところで、敵方に捕えられ、捕虜になって、そのまま釈放されることなく死んでしまった。アララークから提示された条約をカルナーナが受け入れる形で戦いが終結して、カルナーナが連邦の傘下に降ることが決まる少し前だったわ。
 水面下ではもう話が進んでいたから、いまさら捕虜になる理由も本当はなかったの。不透明な死だった。

 そして、遺品だと言われて骨のかけらが送られてきた。
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