碧い人魚の海
「奥さま、どうやらぼくは、子守唄代わりにはそぐわない話を始めてしまったようです」
「構わないわ。わたくしが聞きたくて質問したの。何があったのか教えてくれる? 昼間わたくしがロビンに話したことと、関係があるの?」

「昼間? 昼間の話がどうかされましたか?」
 怪訝そうな顔になるアートに、ジゼルは重ねて尋ねる。
「ロビンから聞いてないの?」
「何をですか?」
「では、人魚はあなたに話さなかったのね。5年前にわたくしが見世物小屋に行って、あなたの空中ブランコのパートナーの落下事故をたまたま目撃してしまったということよ」
 アートは目を見開いて、ジゼルを見返した。
 しばらくそのまま固まっていた彼は、やがて思いなおしたようにかぶりを振り、ゆっくりと低い声で言った。
「聞いていません。人魚からは、何も」

 二人の間に、息が詰まるような沈黙がおりた。アートもジゼルも押し黙ったまま、次に相手が口を開くのを待っていた。
 先に口を開いたのはアートだった。彼は、吐く息とともに、物思いにふけるような低い声で、まるで独り言のようにつぶやいた。

「では、あのときのご婦人は、やはりジゼルさま、あなただったのですね」
「どういうこと?」
 対するジゼルの声にも戸惑いが滲む。

「奥さまのお察しのとおり、そのとき落ちた少女は、いまお話しした少女と同一人物です。ぼくは彼女の行方を訪ねて捜し回り、あの見世物小屋にたどり着いたのです。彼女は見世物小屋でぼくとともに軽業を習い、空中ブランコの曲芸師になりました。ところで奥さま、5年前にあなたが見世物小屋にいらしたときのお連れの紳士のお名前を覚えておいでですか?」

「どうだったかしら? 少し待ってちょうだいね。思い出してみるわ」
 ジゼルはその顔に戸惑いを浮かべたまま、考え込んでしまった。
 しばらく待って、アートは水を向けてみる。
「……ワルシュティン卿ではありませんでしたか?」
「そうね」
 ジゼルは首を傾げながら、ともかく肯定の言葉を返したが、やはり腑に落ちていない表情のままだ。
「言われれば、となりにいたのはその人だったような気がするわ」
 はっきりとは思いだせないらしい。

「覚えてらっしゃらないんですか?」
 思わずアートは、少々呆れた口調になる。
 困った顔で、ジゼルは額に手を当てた。
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