碧い人魚の海
 少女の言葉にアシュレイは逆らえない。なぜならアシュレイに名前をつけたのは、ほかならぬ人魚の少女だったからだ。
 本当は少女のところまで泳いで行って、少女を連れて、一緒に逃げるつもりだったのに。
 人魚の放つ言葉の魔力に突き動かされるままに、アシュレイは深く深く、海の底に潜った。

 約束の時間にアシュレイは戻って来て、宵闇の中、浜辺に向かって押し寄せていく波のすぐ下で、いつまでもいつまでも少女を待っていた。けれども月が沈み、東の空が白み始める頃になっても、人魚の少女は戻ってこなかった。



 知らなかった。
 アシュレイに、そんなに心配をかけていたなんて。
 そんなことは、知らなかった。
 あのあと彼は、ルビーのことなど忘れて、すぐさまどこかの遠い海に行ってしまったとばかり思っていた。
 能天気に世界中の海を泳ぎ回っているのだとばかり思っていた。
 第一アシュレイが自分の言葉に逆らえないことすら、ルビーにはわかっていなかったのだ。

 ……だったらルビーが外の世界に連れて行ってと頼んだときも、本当は困っていたけど逆らえなかったんだろうか?

 沸いた疑問の答えはすぐに、自分の内側からやってきた。
 記憶の中のアシュレイは、小さな人魚とのささやかな冒険を楽しみにしてくれていた。だからよく自分から北の海にやってきては、誘うように人魚の周りを泳ぎ回っていたのだ。

 一口食べるごとに、アシュレイの記憶はルビーの内側で広がっていった。

 涙がルビーの目から溢れ出し、静かに頬を伝って落ちた。
 涙はあとからあとから、とめどなく溢れてきた。心が痛い。心臓が痛い。全身が痛い。キリキリと痛んだ。どこが痛いのかももうわからない。痛くて辛くて苦しくて、一口一口をかみしめながら、ただルビーは泣き続けた。

 あれからアシュレイは何度も何度も、何日も何日も、南の海に消えたルビーを探してくれたのだ。
 水夫の銛に狙われた自分を逃がして、代わりにルビーが捕えられたことを、アシュレイは悟っていた。
 自分のせいで人魚が捕まったのだと思った。
 だから助けようと思った。でも、どうすればいいかわからず、ルビーが消えた島の周囲を泳ぎ回ることしかできなかった。
 海面すれすれを泳ぎ続けて、小さな人魚の影を捜し続けて、そうしてしまいには、見つかって捕まって、殺されてしまったのだ。
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