碧い人魚の海
 貴婦人は、それには答えず微笑んだ。
 ベール越しの白い顔が、どこかさっきまでと違った風に見え始めていた。口元に宿る寂しげな影は気配をひそめ、その表情は深く暗く物憂げなものから次第に、どこか艶めかしいけだるげものへと変わっていく。急速に、魔法が薄れつつあるのを、ルビーは感じた。

 貴婦人は、今はじめてルビーの様子に気づいたというように、美しい形の眉をひそめた。
「どうしたの? 人魚、泣いているの?」
 テーブルの縁に佇むルビーを、貴婦人は気遣わしげに見上げた。
「どこか痛いの? 何か悲しいことでも思い出したの?」
 貴婦人は立ち上がり、手を伸ばして、涙に濡れたルビーの頬に指先で触れた。

「それともみんなが先に帰ってしまって寂しいの? 大丈夫よ、人魚。あしたの朝にはちゃんとみんなのところに送っていってあげるから。今夜は人魚はわたくしと過ごすのよ。何も寂しいことはないの。楽しいことを教えてあげる。悲しいことなんて、忘れさせてあげるわ」

 柔らかな白い手で貴婦人は、燃えるような色のルビーの髪をそっと撫でた。そこで彼女は足元に目を落とし、ルビーの尻尾の変化にふと目を留めた。
「人魚は人間になったの?」
 考え込むように、貴婦人は首を傾げた。

「朝、屋敷にやってきた魚売りが言ったの。この魚を人魚に食べさせると不思議なことが起こるって。それってこのことだったのかしら? せっかくの珍しい赤い尻尾が普通の人間の脚になっちゃうなんて、不思議というよりつまらない気もするのだけど。それに、見世物小屋の主人に恨まれてしまうわね。人間の女の子じゃ、何の見世物にもならないもの」

 けれども気を取り直したように首を振って、貴婦人は微笑んだ。
「まあいいでしょう。人生は短いの。悲しみの海に溺れている間に過ぎ去ってしまうものなのよ。だから、せめて今夜は楽しみましょうね」

 デザートを用意させると言った貴婦人に、ルビーは要らないと答えた。
 テーブルの皿は片付けられ、案内されてルビーは寝室に通された。
 さっきの深海の底のような小さな部屋と違って、外に向かって大きな出窓のついた大きな部屋だった。

 ところが部屋を移動したところで、執事らしき人物が貴婦人に来客を告げに来た。
「奥さま。先ほどの、見世物小屋の者が、1名見えておりますが……」
「あらそう? どなたが? 座長さんかしら」
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