碧い人魚の海
 グレイハートが黒い服の陰で小さく手を振ったように見えたとき、既に塔はバリバリとひび割れながら崩壊していた。注意深くグレイハートを見ていたルビーでさえ、気配のようなものしかわからなかった。だから周囲を取り巻く人々の目には、彼が何かしたようには映らなかっただろうと思う。

 男たちの視線はおもに、顔に傷のある賢者ではなく、黒髪黒い目の謎めいた美少女の方に釘付けだったから、なおさらだ。
 衝撃音に驚いた何人かが思わず後ろを向いて逃げ出したが、塔は横倒しに倒れるのではなく粉砕されて一気に崩れ落ちたため、下敷きになるものはいなかった。
 走って逃げたものたちが、恐る恐る戻ってくる。
 が、そのあとがいけなかった。

 夏の日差しが何かの影に遮られて、木漏れ日のようにゆらゆらと揺れている。日差しの中、黒い層を幾つもつくりながら、空気でできた黒いカーテンのような塊(かたまり)が、崩れた塔の真上で波打っていた。ルビーの目にはそれは、空に映し出された昆布の森の半透明な幻影のように映る。黒い塊をすかして見る太陽は、グレイがかった不吉な色をしている。

 突然それは大きく膨らんだ。
 まるでタコが墨を吐いたときのように、黒い塊は中身が吹き出すように膨張し、セピアの闇であたりを押し包む。
 ルビーはまるでセピアの海の中を泳いでいるように感じた。それと同時に、ここは何か恐ろしいものの胃袋の中のようなものだと気づく。
 どいつを狙おう。
 どれから餌食にしよう。
 暗闇の中で、禍々しい何かが舌なめずりをする気配がする。

 が、グレイハートは闇の中、人々に囲まれて、今度ははっきりと片手を振り上げた。手には短い杖。

 その瞬間、膨張した闇が、杖の先にぎゅるぎゅると吸い込まれていく。
 吸い込まれながらも闇はぐにゅぐにゅと波打って、抵抗するそぶりを見せた。この地に踏みとどまろうとして人に巻きつき何人かを地面に引きずったあげく、すべて杖の中に吸い込まれた。
 そして──。
 今度は杖が、グレイハートの手の中に吸い込まれたと思ったら、彼は目を閉じばったり倒れてしまった。

「なんてこと!」
 立ちすくんだ少女が、アルベルトを睨む。
「人(ヒト)の中にあれを封じるなんて」
 男は少女の怒りに燃える眼差しを受け止めて笑った。
< 9 / 177 >

この作品をシェア

pagetop