手の届く距離

「すげー頑張ってたの知ってますよ」

ベッドの脇に膝をついて、目を伏せたまま動かない祥子さんの顔に掛かった髪を払ってやったのは考えなしの行動だった。

邪魔そうだと思ったから払っただけで、別に他意はなかった。

むずがるようにこちらを向いた顔を眺める。

こんなに身を任せきっているのに、信頼してくれているのに、近くにいるのに、恋愛対象にはしてもらえない。

なんで、こっちの視線に気付かないのだ。

周りだって応援モードだけれど、祥子さんの気持ちが落ち着くまでは静かに見守るつもりだ。

実らない初恋は幼稚園の先生で済ませたから、2度目以降なんだし、ブランクがありながら何度でも好きになるんだったら、そろそろ想いが通じてもいいじゃないかと、利己的に考えてしまう。

二人きりになった部屋だけれど、扉は開いたままだから密室ではない。

たぶん、お酒のにおいが理性を揺らがせた。

無防備に少し開いた口唇に吸い寄せられる。

気付いて欲しい、と思う気持ちが後押しする。

「祥子さん」

声が唇を震わしそうな距離で、名前を呼んでも反応はない。

眠ったままでも俺に感謝をしてくれた祥子さんの気持ちに応えたいと思う自分もいる。

最後の理性が働いて、顔を退いた。

しかし、ちょっとだけ、お礼をもらったと理由をつけて最後の自分の行動には目を瞑る。

額に唇を落として逃げる。

俺が黙っていれば、誰にもわからないこと。

誰にも知られないこと。

祥子さんの存在感が色濃い部屋を急いで後にする。

階段を駆け下りた勢いで靴を履く。

音を聞きつけた祥子さんの母親と晴香さんが1階のリビングから出てくる。

「あ、待ってちょうだい。もらい物だけど、おいしいお菓子だからお礼には少ないけどもらって頂戴」

「十分お礼もらったんで」

頭を思い切り下げて、引き止められる声が続くのを振り切って玄関を飛び出す。

駐禁対策で誠さんが乗っている車が、下ろしてもらった場所で留まっている。

「送るよ」

相変わらず少ない口数の誠さんにも頭を下げる。

「歩いて帰ります、ありがとうございました」

けして、近い距離ではないが、一人になりたくて。

一人反省会をして、頭を冷やすには十分な時間と距離がありそうな道を駆け出した。


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