手の届く距離

『ご主人様が呼べばね。そうじゃなきゃ来ないわよ』

最初に自分が大型犬扱いしたからだけれど、晴香さんの中で川原は完全に犬だ。

確かに先輩の言うことには従順だった、働き者の川原が晴香さんのために動くのはわかるが、自分のおもちゃを取り上げられたような寂しさがある。

「晴香さん、川原手懐けすぎですよ。誠さんだけにしてください」

『違うわよ、ご主人は祥ちゃんでしょ。祥ちゃんのことなら言うこと聞くけど、それ以外はあの子頑固よ。気に入らないことはちゃんと断るもの。義理堅いし、祥ちゃんと同じくちょっと押しに弱いけど。飼い犬ってご主人様に似るっていうしぃ』

川原のご主人様になった覚えもないし、言うことをよく聞いてくれるが、無理を言った覚えも、変に命令をしたこともない。

「義理堅いから、それを利用して晴香さんが押し切ったんでしょう」

『違うってばぁ。そんなに言うなら、本人に聞いてみなさいよぉ。ご主人様は誰ですかって』

「犬じゃないんですから、そんなこと聞けないですよ!」

晴香さんはあくまで川原を犬扱いを通すようだ。

『じゃあ、好きな人は誰ですかって聞いたらいいわ」

思わず言葉に詰まってしまった。

「・・・好きって、そりゃ、晴香さんだって私のことだって、好きっていいますよ、川原は」

いつもより歯切れ悪く話してしまった気がする。

聞いて欲しかった内容も川原関連だ。

『そうね。でも顔見て言ってごらんなさい。反応が全然違うから。いい顔見れるわよぉ。そろそろ川原のこと見てあげたらぁ?今日のシフト、一緒でしょ』

川原の顔と額の熱をを思い出して、気恥ずかしくなる。

「何もなかったですよね」

『何の話?何かされたの?でも、背負うのは仕方ないわよ』

「背負ってくれてたの、川原ですよね」

『そうそう、やっぱり体力あるのかしらね。祥ちゃんのことひょいって背負ったのをみたら、私も背負われたくなっちゃった』

「それこそ、言ったらやってくれますよ」

そのくらいなんてことないはずだ。

コートが使えない日の筋トレや自主錬には目を光らせていた。

ちゃんとやっていれば余裕だ。

『きゃあ、ちょっと誠!背負ってくれるの?ごめん祥ちゃん、またね!』

一方的に電話を切られて通話は終了した。

そうそう、川原に背負ってもらわなくても、誠さんに背負ってもらったらいい。

結局、何も追求してくる気配はなかったし、肝心なことは晴香さんも知らなかったようだ。

川原に、直接聞いてみようか。

画面の消えた携帯電話の眺めて、ぼんやりと写る自分の姿を覗き込むと、困ったように眉を寄せた顔に、ため息をついた。

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