手の届く距離


閉店作業を終えて、スタッフルームでのんびりするメンバーに挨拶をして、いつもよりも急いで店を後にする。

自転車置き場で、自転車の鍵を探しながら電話をかけると、珍しく1コール終わらない内に電話に出た広瀬さんに驚き、自転車を出すのも後回しにして少し広い場所へ移る。

『今から言うところに来てくれるかい?近くだから』

挨拶をする時間も与えられず、用件を伝える広瀬さんに、肩を落とす。

寂しかったとか、ずっと連絡が取れなかったのはどうしてとか、聞きたいことも言いたいこともあったが、それすらも色あせる。

「今からですか。もうすぐ日にちが変わる時間ですよ」

『朝帰りでいいじゃないか』

広瀬さんがあっさり提示された意見を、了承するのが当然かのように言われるのが不思議だった。

今日は平日で、明日も学校がある。

「ごめんなさい、そんな風に考えられるほど大学も遊びで行ってるつもりじゃないんです。今まで電話出なかったのに、急に電話が欲しいってどうしたのかな。何かあったのかなって思ってました。そういうわけじゃないんですか?」

『いや、そろそろ攻略させてくれるかなと思って』

「はあ?」

広瀬さんの飄々とした声とあんまりな言い方に声が裏返る。

仕事で忙殺されている広瀬さんを少しでも心配した私が馬鹿みたいだ。

「申し訳ないですけど、少し電話で話がしたいってことだと思ってましたけど、長くなるならまた今度にしてもらえませんか」

わずかな希望と期待をつぶしたくなくて、嫌な予感から自分で目を逸らしていただけ。

急に電話が欲しい言って来た真意を突き詰めなかった自分が悪い。

胸に広がる暗い気持ちを抑えて、誰もいない自転車置き場に向かって頭を下げる。

「待ってよ。折角迎えに来たんだから」

電話越しではない肉声が届いて、目を向ける。

薄暗い店の裏手、出入口のところから人影が現れる。

「広瀬さん」

「なかなか時間取れなくてごめんね。今日の夜なら都合がいいから、一緒に過ごそうかと思ったんだ」

ラフな私服姿だが、その姿に親近感を全く感じられなかった。

店の裏口にはあまり明かりがなく、広瀬さんの表情が見えず、ゆったりとした足取りで近づく彼に、自分の感じる警戒レベルは最高値を叩き出している。

「忙しかったなら忙しかったで、そう言って欲しいし、今から都合がいいかって、そんな急に勝手なこと言われても困ります。大体、こんな時間からどこかへって非常識ですよ」

自分の中の当たり前の感覚が、広瀬さんの当たり前とは全く違うことはわかった。

それをすり合わせる作業をしなきゃいけないこともわかったけれど、それ以上に広瀬さんが私を彼女だと思っているのか、彼女とはどういう存在なのかを確認しなければならない。

それ以前に、もう気持ちが成立しない。

「僕としては、北村君がこの間みたいに蹴らずにいられるか、確認したいと思ったんだけど」

肩を抱えるように回された腕から逃れて、離れようとしたが、手首を掴まれる。

大きく腕を振って払うが、なかなか広瀬さんの手が解けない。

「やめてください。イヤです」

「じゃあ、いつならいいんだい?」

腕を引き寄せられて、靴のつま先同士がぶつかる。

力で敵わなくたって、気持ちは屈しない。

柔らかく笑っている仮面を睨みつけてやっても効果があるとは思えない。

広瀬さんのペースに巻き込まれないよう腕を伸ばして、距離を取ってみるが、腕の長さなんてたかが知れている。

体重をかけて腕を引くが、手首を掴む力がきつくなって抜け出すのは難しい。

「広瀬さんが相手の都合を考えられるようになったら、だと思いますよ。胸に手を当ててよく考えてください」

痛みを感じるくらい強く掴まれた手首に顔をしかめるが、広瀬さんは気に止めることもなくもう一方の手を伸ばしてくる。

好き勝手されたくない一心で、乱暴だけれどカバンを振り上げて払いのける。
< 90 / 117 >

この作品をシェア

pagetop