手の届く距離
広瀬さんはカバンが当たった腕を引っ込めてたが、代わりに今捕まえてられている手を引っ張る。
仮面に隠せぬ苛立ちがにじむのを見て取れた。
「僕としては、北村君以外の女性の影を見せた覚えはない。そうだろう?」
女の影云々なんて他の女の存在があるから、見えないように気をつけてるんであって、そんなことが一番に口に出るって、他の女がいる自白だ。
私のことだけが好きじゃないことの裏づけのような発言。
諦めが見えて、力が抜けた。
「広瀬さん、なんで私だったんですか?どこが好きだったんですか」
一度落とした視線を下から掬うように広瀬さんを見やる。
守ってくれた背中に憧れた。
凛々しさに惹かれて、広瀬さんを知りたいと思った。
けれど、そこには一切触れさせずに、距離を縮めてきたからおかしくなったのだ。
力の入った手と同じように強い広瀬さんの視線が、ゆっくりと体を撫でていく。
「捕まってくれそうだったから、捕まえたくなった。男の性分だよ」
再び目を合わせると広瀬さんは、私の力の抜けた手を離して、腰を引き寄せる。
目の前に迫った胸を両腕で弱く押して、ゆるく首を振る。
闇雲に暴れることもなく、広瀬さんを見つめたまま距離を広げる。
腕から逃れたのが不服だったのか、広瀬さんが拗ねたような口調になる。
「まさか、イヤになったなんて言わないだろう?」
「イヤになりますよ。先にイヤになったのは広瀬さんでしょう。電話もメールもまともに連絡がとれなくなって」
「それは、仕事で忙しかったから」
忙しくても、メールの返事をすることもできないほど、たった1分電話をすることもできないほど忙しいとは思えない。
例えそうだとしても、それを納得できるほど、大人になれない。
「広瀬さんにとっての彼女って何ですか」
「身も心も癒してくれる存在だろう」
「私、広瀬さんのこと、癒せる自信ありません。電話に出なければで励ますこともできないし、事情もわからず一方的にメールを送りつけることもできません。それでも今、癒されてるんですか?」
「そうじゃなくて、これからホテルにでも行ってゆっくりしたら癒されるよ」
悪意の見えない笑顔が、こんなに腹立たしく思ったのは初めて。
結局は、遊べる女が欲しかっただけ。
彼女の称号を欲しがったから、与えられたのが偽の称号に気付かずに喜んでいた。
「女として見てもらえてたことは嬉しかったですよ。場所も考えず強引で、押しが強いと思いましたけど。それでもいい関係を作りたいと思ってました。今まで」
他人なのだから、考えのすり合わせは必要だ。
価値観の押し付け合いではうまくいかない。
相手を尊重し合って、お互いのいいところを引き出して、妥協できるところとできないところの折り合いをつけるのが必要な関係。
「いい関係か。ある意味ではとってもいい関係ができると思ったんだよ。条件的にも」
広瀬さんの発言を聞いた時点でわずかな可能性も失ったのを感じた。
晴香さんの言葉を思い出す。
ギブアンドテイクの関係は長続きしない。
「条件ですか?」
完全に嫌な流れになっている。
今日の話し合いで期待していたのは、お互いの気持ちの確認。
ふと、刈谷先輩を思い出す。
刈谷先輩は、不器用ながら、その想いを示してくれていた。
こんな殺伐とした気分の時に記憶が蘇らなくてもいいのに。