倦怠期です!
男の子だったら仁さんの名前から、女の子だったら私の名前から漢字一文字を、子どもの名前につけようと決めた私たちは、検診のときにおなかの赤ちゃんが女の子だと分かってから、女の子の名前を考え始めた。

私の名前である「香世子」の中から「香」の字をつけることにしたのは、私とお姉ちゃん、そしてお母さん3人に「香」の字がついてるから。
お母さんもそうやって、私たちに「香」がつく名前をつけてくれたと、赤ちゃんの名前を考えている時、教えてくれた。

そうして1994年9月18日、娘の日香里(ひかり)誕生。
陣痛が始まってから40時間後に生まれた小さな日香里を、私はそっと抱きしめて静かに泣きながら「やっと会えた」と呟いたのが精一杯だったのに対して、仁さんはおいおい泣きながらも、「命の塊やなぁ」と感慨深げに言っていた。


一人暮らしもしたことがない私は、いきなりの展開で仁さんという夫と、さらに日香里という赤ちゃんと一緒に暮らし始めることになって。
それこそ毎日が初めての連続で戸惑うことばかり。
育児に関しては、仁さんも初めてだったし。

お金は面白いくらい、あっという間に減っていくのに対して、毎月仁さんのお給料だけで、どこにどれくらいお金を使うのかと頭を悩ませ、母乳があまり出ないことにショックを受けつつ、その分ミルク代払わなきゃ・・・あぁまたお金がないと嘆いて。

「分からない」「どうしよう」という思い、そして日香里の夜泣きでロクに眠れない私は、苛立ちばかりが積もっていって、出産後もよく泣いていた。
赤ちゃんの日香里に泣き顔ばっかり見せて、私って母親失格・・・と思ってはまた泣く。
育児も家事もお金の管理も、自分にはいっぱいすぎて、もうできない。
とまで思いつめた私は、日香里を連れて、近所のお母さんちへ駈け込んで。

結局私と日香里は、4ヶ月くらいお母さんちで暮らした。

あのときお母さんが近所に住んでいなかったら、私の心はボロボロに壊れていたと思う。
義両親は遠い福岡に住んでいるし、お二人とも仕事があるから、そう頻繁に横浜まで来ることはできなかったし。
ホント、お母さんには助けてもらった。

私がこうなってしまったのは、仁さんが育児に協力的じゃなかったからじゃない。
むしろ仁さんがいてくれたから、私はこの程度の壊れ具合ですんだと思っている。
普段は仕事で忙しいのに、掃除もしてない家に帰っても、食事の仕度ができてなくても、私を責めることなく、自分でできることはしてくれていた。
本当に仁さんはできた夫だ。

そして育児や家事やお金の管理といった毎日の暮らしも、時間が経つうちに、少しずつ要領をつかんでいった頃、「もう一人子どもほしいなぁ」と仁さんが言うようになった。

船酔いみたいなつわり状態が何ヶ月も続いた後、40時間もかけて出産するのかと思うと、正直私は最初、乗り気じゃなかった。
でも、日香里が生まれてきたとき、つわりも陣痛の痛みも、出産の疲れも、あっという間に消え去って、全てが「よかった」と思えたこと。
何より、私の胎内で育っていた赤ちゃんにやっと会えた喜びのほうが、何十倍も大きかった。
その思いをもう一度、味わいたい。
という私たちの願いは、1998年の6月21日に、息子の遼太郎が誕生したことで叶えられた。


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