GOING UNDER(ゴーイングアンダー)

「琴の髪だし、琴の進学だし、琴のことなのよ。勉強するのも試験受けるのも就職するのも働くのも全部琴なのよ。ママが代わりに医者になるわけじゃないのよ。考えて、琴。琴はどうしたいの? 髪を切りたいの? 切るのが嫌なら切らなきゃいいじゃない。一度ぐらいママに逆らってみなよ。そうしたら……ママのいうこと聞かなくたって、世界が終わるわけじゃないんだって、きっとわかるから」

 琴子は黙って首を振る。

 いいかげんママに支配されるのはやめなよ。自分の頭で考えてよ。反抗してごらんなさいよ。ママが本当に琴のこと大事に思っているわけじゃないことぐらい、もうわかってるんでしょ? ママは自分の思い通りになるお人形がほしいだけ。本当の琴なんて、最初から見てないのよ。琴は言うことをきかなくなったお兄ちゃんの身代わりでしょ? もう、とっくに気づいているんでしょ?

 そんなふうに直接的な言葉を琴子に投げつけたくてしかたがなくなるけれども、一片の理性がそれを押しとどめる。琴子がママのエゴイズムに気づいていないわけがない。気づかないふりをしているのは、それに向き合うのに耐えられないからだ。

 ねえ、琴、わたしじゃだめかな。ママの代わりにはならない? どんなヘアスタイルしてたってわたしは琴が好きだし、医者でも保育士でもOLでも、何になりたくたって琴を応援するよ。ストーカーなんて近づけさせないし、怖い思いなんて絶対させないから。

 ううん。琴子に怖い思いをさせないなんて、とても無理。琴子がおびえているのはママに怒りを向けられたり、冷たく突き放されることで、そのことに対して美奈子は全く無力だ。
 だから、その言葉を口に出して言う代わりに、何気ない調子で美奈子は言った。

「明日、美容院、つきあおうか?」
「切るの? 美奈が?」

 びっくりしたような琴子の声に、美奈子は少し首を傾げて、

「そうね。毛先をそろえるだけでもいいけど、ショートにしてもいいかな」

 琴子は体勢を立てなおし、美奈子の手を振り払った。

「だめよ。美奈には切る理由がないじゃない」
「わたしも琴と同じ受験生だもの。これから追いこみの時期だし」
「だめ、もったいないよ。すっごく綺麗なストレートの黒髪なのに。あたし、美奈のようなサラサラの髪だったらって、何度思ったか知れないんだよ」
「わたしは琴の髪の方が好き。柔らかくってふわふわしてて、綺麗な栗色をしてて」

 言いながら美奈子はもう一度琴子の髪に手を伸ばす。
 明日の晩にはこれがなくなってしまうかと思うとひどく残念だった。正直自分が髪を切るよりも惜しい気がする。けれどもきっと一番気落ちしているのは琴子だ。だから、切らないでいてという言葉を口にすることはできなかった。
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