GOING UNDER(ゴーイングアンダー)
16
 鞄から取り出した手帳の後ろをビッと破り、知明はその紙切れにペンでサラサラと何かを書いて、美奈子に渡した。
 市内から始まる住所と番地、アパート名らしき名前と番号、それから携帯のナンバーが書かれている。

「おれの転居先と、連絡先になる」
「これを琴子に?」

 美奈子の質問に、知明は首を横に振った。

「口頭で伝えてくれるのはいいが、そのメモは美奈子さん、できれば君が持っていてくれないか。琴子の持ち物はすべて、おふくろにチェックされているはずだから」

 顔を上げて見返す美奈子に、知明は言った。

「正直おれには、その紙切れが琴子にとって必要なものなのかどうかの判断がつかない。もしもあの家にいるのを琴子が耐え難いと感じているのなら、あるいは今はそうでなくとも必要なときがきたらそのときに、この連絡先を琴子に伝えてくれないだろうか」

 美奈子が何も答えないうちに、真由子が言葉をさしはさんだ。

「桜井くん、さっき電話でも聞いたけど、もしも今が琴子ちゃんにとってそのときだったら、どうするの? あなた、琴子ちゃんを引き取れるの? 一緒に暮らせるの?」

 姉の考えはとてもシンプルだ。
 知明が琴子を引き取る。琴子は家を出て、どこか知らない街で、美奈子の知らない場所で暮らす。医学部志望をやめて、その街の高校に通って、アルバイトをして、短大か専門学校を目指して、小さな頃からの夢だった保育士になるための勉強をして。

 琴子が遠くに行ってしまうは嫌だ。嫌だというか、困る。琴子がべそをかいているとき、さびしがっているとき、悩んでいるときにそばにして、すぐに手を差し伸べてあげることができなくなるなんて。反射的にそう思う一方で、もしかしたら琴子にとってかえってそれは幸せな選択かもしれないという思いも頭をよぎる。

 けれども、もしも知明がそれを提案したとしても、やっぱり琴子は家に残ることを選択するだろうことを美奈子は知っている。
 知明もそれは知っているのだろう。だから、そのときが来たら、などと曖昧な言い方をしたに違いない。
 だからこれは、もしもの話しだ。ただの仮定に過ぎない。そう思っても少しドキドキするのはなぜだろう。
 美奈子は少し目を伏せて、知明の返事を待った。

「いや、それはない」

 しかしながら、あっさりと、知明は真由子の示唆した可能性を否定した。
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