音楽の聖地に落っこちて
1.音楽の国の掟
 私にとって音楽は空気と同じで、初めからそこにあった。当たり前のように与えられていた。空気を吸って吐くように、音楽を聞いて奏でて。特別好きでも嫌いでもないそのことが、父をとても喜ばせると分かって、音楽は“好きなもの”になった。
 だけどそのせいで、私は母を悲しく不幸な女にしてしまったのだと思う。
 私は音楽が好きだったんじゃない。“父に褒められること”が嬉しいだけだった――



*****



 小峯利音は文字通り溺れていた。
 水を掻く手足に手応えはない。天地も分からない。肺が空気を求めていた。でもその生理に応えてはならない気がした。苦しいことが正解だ! 頭のどこかが叫ぶ。
 これがお前の選んだ道だ!
 お前は苦痛をとった!
 苦痛が幸福になると信じた!

(…でもっ……やっぱり、むり……っ!)

 暗闇に一粒の光。
 利音は手を伸ばした。必死に掴もうと。今度こそ逃してはいけない、その光――

「っぶぁ、ゲホッ……! っは、あ……!」

 息ができる、と利音は思った。満足に吸い込むことは出来ないが、水の中よりマシだ。
(水……というか、お湯?)
 苦しさから視界はぼやけてるけど、利音が溺れていたのは適温に温められたお湯の中だった。
(そうだ、私、お風呂で……)
「貴様、どこから入り込んだ」
 突然上がった男の声にビクッと体が縮こまる。腕を掴まれて、背に捻り上げられた。少しでも身動ぎしたら、確実に、関節がイカれる。
 ようやく戻ってきた視界に飛び込んだのは裸の男。険しい顔で利音を睨んでいた。その目は冷たく燃える紺碧。髪の毛は柔らかそうな金褐色で水が滴っている。男は視線で射殺すように利音を睨みながら、口元だけ不敵に笑った。
「湯船から湧き出るように現れたな? 術師か? 俺の入浴中を襲うとは、なかなか、度胸のある女だ」
 利音はさらに混乱した。男が何を言ってるのか分からなかったのだ。母国語は日本語だが、利音は英語が堪能である。イタリア語とドイツ語も勉強中だ。しかしそのどれとも違う言葉を、男が話した。
(もしかしてロシア語? やっぱりロシア語も勉強しておくんだった)
 混乱した頭は現実味のないことを思う。利音が今まで出会ってきた国籍問わずたくさんの人とは、言葉で意思疎通できないことはなかったから、こんな時にどうすればいいのか全く分からない。
「ごめんなさい、なんて言ってるか分からない、です……」
 恐る恐る日本語で言うと、やはり相手も怪訝な顔をして、睨みつけてくる。そのあまりの強さに利音は耐えられなくなって、逃げるように俯いた。それでもつむじの辺りにピリピリするような視線を感じる。
 そもそも、利音はなんで自分が裸でいて、同じく裸の男(たぶん入浴中)の正面にいるのかも、何にも分からない。捻り上げられた腕は痛いし、異性に裸体を見られ見てしまうというこの状況が恥ずかしく、居た堪れない。
「突然現れて、知らぬ言葉を話す者……そうか。もしやお前、〈剥落者〉か」
 男は何やら一人で納得したようで、フッと笑みをこぼした。
「それじゃ、用はない」
 突然、利音は男によってお湯に沈められた。容赦なく押さえつけられ、ガボガボと口から気泡が登っていく。
(私、死ぬの、かも……)
 水の中から見た男の顔は、泣きそうに笑っていた。
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