恋するバンコク
 鼓動が大きく鳴っている。どうすればいいのかわからず、呆けたように目の前の警官たちを見た。
 ふいに大きな手が肩に乗って、それで真っ白になっていた思考がぱちんとはじけた。
「あちらでお話しましょう」
 タワンが結の肩を抱いたまま警官を見返した。肩に置かれた手も声も震えることなく、いつもと変わらない。そのことが結を正気づかせた。
 
 タワンは結の肩を抱いたままバックヤードへと警官たちを促す。行きしな、心配そうにこちらを見るスタッフたちと目が合った。お客たちは会話もそこそこに戸惑ったように顔を見合わせたり、囁き合ったりしている。
 変な噂が立たないといいけど。一瞬そう思って、こちらを見る警官たちの冷たい目になにかを考える余裕はなくなった。
 ごくん。乾いた喉が鳴って、結たちはロビーを出て行った。

 打ち合わせに使っている部屋に警官たちを通すと、ソファ席に腰掛けた真ん中の男がソムチャイと名乗った。茶褐色の丸顔に丸い目のソムチャイは、典型的なタイの中年男性に見える。ソムチャイはタワンの隣に座る結に視線を寄越した。
「あなたがサノユイですね」
 力の入った両手を膝に置いて、結はおずおずと頷く。タワンがすぐに言った。
「大使館の通報は誤りです。彼女を雇ってるわけじゃない」
 ソムチャイは視線だけ動かしてタワンを見た。
「けれど現に今、ここの制服を着て働いてるじゃないか」
「ボランティアで協力してもらっているだけで、金銭のやり取りはありません」
 きっぱりした口調でタワンが言う。その後のタイ語の応酬は早口で、とてもついていけない。タワンがスマホを取り出すと、スタッフになにか指示した。そのなかで、グンドゥアン(給料)という言葉が聞こえる。

 ほどなくして現れたスタッフが冊子を抱えて来ると、タワンはそれをソムチャイに見せながら説明した。
「これはうちが支払っている給料明細の一覧のデータです。全スタッフ分が入っていて、ここに彼女の物はない」
 ソムチャイは胡散臭いものを見るような顔で冊子を覗きこむ。両脇に座る警官と小さな声で話すと、首を横に振った。
「これだけでは証拠にならない。日本大使館は納得しないだろう」
 今まで冷静に対応していたタワンの表情が、はじめて変わった。眉間に皺を寄せたその横顔に、胸がズキンと痛む。

 結のことで迷惑をかけている。それなのに自分でできることがなにもなくて、不安と焦燥が体を覆う。ずっと握りしめている両手の拳に力をこめると、怯える自分を叱咤した。

 それからもタワンは勤怠表や帳簿を見せて説明を続けたけれど、支払っている証拠ではなく支払ってない証拠というのは立証し辛いようだった。最初は浅く相槌を打っていたソムチャイもやがて焦れたように咳払いをすると、
「とりあえず、警察署で詳しく話を聞こう」 
 そう言って立ち上がり、結を見た。両脇の警官たちが素早く移動して隣へと来る。こちらに向かって伸びてくる手に、体がすくんだ。
「や、やだ」
 声が震える。
「ユッスィ!(やめろ!)」
 タワンが声を上げた。ソムチャイが短く命じると、警官たちは結の腕を強く掴んだ。そのままグンと引かれる。
警官たちは荷馬車でも引くように、淡々と、けれど遠慮のない力で結を出口へと向かわせた。
「ユイ!」
 警官たちの力が強く、上半身だけが引かれて着いてこれない足が転びそうになる。
「タワン」
 どうしよう、どうしよう。
 半ばパニックになって恋人の名前を呼ぶ。タワンが結の腕を掴む警官に向かって叫ぶ。警官たちはタワンを横目で見るとその訴えを黙殺した。
 引っ張られながら、暴れる心臓がろっ骨をバンバンと叩く。
 外国で拘留なんてされてしまったら、いつ戻ってこれるかもわからない。
 こわい。

「待ってくれ」
 ふいに扉がバタンと開いた。
 警官たちが動きを止める。結は振り返って、かすれた声を出した。
「……たかし?」
 高志と、その後ろには瞳が立っていた。
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