恋するバンコク
 高志? 
 なんで?

 突然のことに両腕を捕まれたまま固まっていると、
「その通報はデタラメだ。な、そうなんだろう」
そう言って瞳を振り返った。瞳は下を向いたまま、誰とも視線を合わすことなく小さく頷いた。その眉間にはハッキリと皺が刻まれていた。

 ……瞳さん?
 まさか、という思いがじわりと湧き上がる。
 昨日、瞳の姿が見えないと言っていた高志を思い出した。

 タワンも同じことを考えているのか、高志と瞳を見る目が強く眇められた。
「なにを言ってるんだ?」
 そう言ったのはソムチャイだった。日本語がわからないソムチャイは、突然の訪問者を訝しむように目を細めた。
「とりあえず、彼女を離してもらおう」
 タワンは言いながら、未だ結を拘束している警官の腕をグイッと掴んだ。
「なにをする」
「彼女は不法就労なんてしてない。彼らがそう言っている」
 ソムチャイの言葉を撥ねつけるようにタワンが大きな声を出す。そしてそれ以上彼らがなにか言うより先に、結を掴む腕を強引に振り払った。

「大丈夫?」
 タワンがそっと結の腕を撫でさする。結は力なく頷いた。今さらのように恐怖で涙が滲んでくる。視界の隅で、高志が険しい顔でこちらを見ていた。その隣で瞳は唇を固く結んでそっぽを向いている。

 タワンとソムチャイが早口でなにか言い合う。言葉の応酬が何度かあった後、ソムチャイは苛々したように息を吐いて携帯を取り出した。
「大使館に確認を取る」
 そう言いながらタワンを睨み、次いで結へと視線を移した。厳しい眼差しにぞくっと肌が薄寒くなる。捻りあげるように捕まれた腕が鈍く痛んで、自分の手で腕を撫でさすった。

「Hello?」
 ソムチャイは携帯を耳にあてると、体を横に向けて話し始めた。頷いたり首を横に振ったりしながら通話相手とやり取りをした後、タワンを振り返った。
「スタッフが、話をしたいと」
「出てくれますね」
 タワンは厳しい顔で、高志と瞳を見た。その言葉に、関係ないとばかりに不貞腐れた顔で腕を組んでいた瞳が怯えた顔をする。
「僕が」
 高志が緊張からか、青ざめた顔で携帯を受け取った。こちらに背を向けて少し低い声で話し始める。
「はい、その通りです。はい。こちらの勘違いです」
 高志が相槌を打つたびに、瞳の顔から血の気が失せていく。
「申し訳ありませんでした」
 通話相手に高志が頭を垂れる。そんなものを見てたまるかとばかりに、瞳は両腕を固く組みなおしてあらぬ方を向いた。
 通話を終えて振り返った高志は、憔悴した顔をしていた。目の下に色濃い隈が目立つ。
「通報は誤りです。すみませんでした」
高志はそう言って再び頭を下げた。ソムチャイと二人の警官たちが顔を見合わせる。
 タワンは尖った大きな息を吐くと、早口のタイ語で同じ言葉を繰り返した。

「出て行ってくれ」
 語気を強めてタワンがソムチャイらを見た。ソムチャイは無表情に高志とタワン、そして結へと視線を滑らせ、黙って頷いた。

 ――よかった。

 がくんと体の力がぬけて、タワンが後ろから肩を支えた。タワンに体重を預けて息を吐く。細い息は震えていた。
 ソムチャイたちが出て行くと、タワンが怒りを滲んだ目で瞳と高志を見た。
「なんでこんなことをしたんです」
 低い声に瞳は一瞬固まり、その後開き直ったように顎を突き出した。
「結さんが気に入らなかったの」
 タワンの表情が険しさを増した。めったにない大声で、
「彼女がどうなってもいいっていうのか」
 口調が支配人のそれから、タワン個人のものに変わる。瞳は視線を合わせないままビクンと体を震わせた。華奢な身体は、いつもよりさらに青白い所為か、今にも倒れそうに見えた。
それなのにこちらを振り返る赤く充血した目は、燃えるように光っていた。
「いいわよ」
 瞳は震える声で応える。そこではじめて、結を見た。
「結さんなんてどうなったっていい」
 射るような視線とともにまっすぐ寄こされる言葉。けれど結は驚きこそすれ、傷つきはしなかった。 
青白い肌と赤い目をした瞳のほうがよほど、苦しそうに見える。

 俯いた彼女の長い髪が、華奢な身体を覆うように垂れる。瞳は呻くように言った。
「高志さんの前から、いなくなってほしかった」

「……ひとみ?」
 高志が呆然と婚約者の名前をつぶやく。瞳は涙に濡れた目で高志を睨み上げた。小刻みに震えながらも、その目は強い怒りを宿している。
「あなたと結さんのこと、知らなかった私を馬鹿だと思ったでしょ。なにも知らずに、こんなところまで来て」
 そう言って、わななく小枝のように細い両手で顔を覆った。
「結婚なんてできるわけない」
 悲しい声だった。
 結の胸に痛みが広がる。
 このひとも、傷ついたんだと思った。
 もしかしたら、結よりも深く。

「…………ひとみ」
 高志がかすれた声でつぶやく。瞳に向かって手を伸ばして、けれどおもいきり振り払われた。
「さわらないで」
 涙でぬれた頬に髪がからみつく。乱れる髪の向こうから、隠しようもない悲しみが滲んだ。
 その瞳の細い身体に、高志は再度手を伸ばす。高志の手も震えていた。
「悪かった。全部僕が、悪かったんだ」
 壊れ物を抱くように抱きしめられ、瞳は激しく抵抗する。高志はそれでも手を離そうとはしなかった。
 
 無意識のうちに、結は口元を手で抑えていた。じわりと涙が目の裏でたまる気配がする。
 そっと肩を抱かれて顔を上げた。タワンが優しさと少しの苦さを混ぜた目で、結を見つめていた。おもわずすり寄ると、強い力で抱きしめてくれる。こうされたい、と願った同等の強さで。

 タワンの心臓の音が聴こえる。とくん、とくんとその鼓動を数えて、自分の心が凪いでいくのがわかる。
 泣きそうになったのは、失くした恋の未練からじゃない。タワンの鼓動を聞きながら小さく言った。
「私、このひとが好きなの」
 視線をめぐらすと、高志が瞳の肩を抱いたままこちらを見ていた。高志も瞳も、髪が乱れてまるで取っ組み合いの喧嘩をしてるように見える。そのことに少しおかしみを感じたけど、笑うことはできなかった。
 タワンを見上げる。突然の告白に、少し驚いたように口を微かにあけている。いつもより丸い目の形が愛おしい。

「引き離されないで、よかった」

 つぶやいたら、瞼にたまっている熱が溶けて流れた。頬をつたう涙が、じわりとタワンのシャツへと消える。
 タワンがさっきよりも強い力で結を抱きしめる。首に巻くスカーフがよれて顎の下を撫でた。いつもとはちがうその肌触りを、理由を思い出せばそれさえも甘く愛しくなる。

 自分の意志とちがうところで、はなればなれになるところだった。
 そんなの、耐えられない。

「ユイ」
 小さく名前を呼ばれて、息苦しい抱擁から顔を上げる。涙の跡を追うように、タワンの唇が優しく頬を撫でた。
ひとまえなのに。
そう頭の片隅で言葉だけ浮かんで、でも気にならなかった。目を閉じて頬を撫でるキスを受け入れる。

「すまなかった」
 しゃがれた声で、高志が言う。
「瞳を恨まないでくれ。全部俺の所為なんだ」
「そうだな」
 タワンが間髪入れず応じる。結をしっかり抱きしめながら、低い声で言った。
「彼女だけじゃない、ユイもたくさん傷つけた。君は最低の男だ」
 ぐっと言葉に詰まるように、高志の肩が強張る。歯を食いしばるような顔で頷いた。
「……そのとおりだ」
タワンは結を見つめると、その目を優しく和らげた。
「自分が一番大事だと思うものだけを大切にすればいいんだ。簡単だろう」
 とくり、鼓動の動く音を聞く。
 体の中をあたたかなものが流れていくこの感覚を、なんと呼べばいいんだろう。
 
 ああ。呻くように高志が声を漏らす。
「本当に、そうだな」
 つぶやいて、片手で額を覆った。指先が乱れた前髪を持ち上げる。その様子を、瞳は泣き腫らした顔でぼんやりと見ていた。実際に見ているかどうかは、わからない。騒いでいた反動なのか、瞳は電池の切れた人形のように静かだった。
「……タワン」
 未だ結の腰と背中を抱いてるタワンの腕を少し引っぱる。
「もう行こう」
 高志と瞳がこれからどういう選択をするのか、結にはわからない。わからないし、知る必要のないことだった。
「帰らないと。みんな心配してるよ」
 そんな言葉が口から零れて、一瞬目を見張ったタワンがニコリときれいに笑った。タワンが笑うから、結も心がふくりと持ち上がって嬉しくなる。
 結をたくさん傷つけた、高志にそう言ってくれて嬉しかった。
 だけど、もう大丈夫なんだよ。心の中でそっと言う。
 もう高志には傷つけられない。傷つけられないし、泣かない。
 それができるとしたら、今目の前で結を抱くこのひとだけだ。
 彼だけが、結に歓びも悲しみも与えられる。
 このひとが結の、好きなひと。

 高志と瞳を部屋に残したまま扉を閉じる。同時に、タワンが身をかがめてきた。目を閉じて、唇を重ねる。
 唇を割いて入りこんでくる舌を受け入れながら、思い出す。
 
 前にタワンから告白された時、帰るつもりで空港へと向かった。
 もうきっと、二度とあんなことできない。
 引き離されそうになったとき、思い知った。
 離れることなんて耐えられない、だから。

 このまま一緒にいられる方法を、考えたい。
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