恋するバンコク
 ふしぎだ。

 二つ並んだマグカップにコーヒーを注ぎながら、結は今さらのように混乱していた。
 後ろを振り返ると、大股七歩で横断できるワンルームアパートに、やっぱりタワンがいる。ソファと反対の壁際に置かれたテレビとその隣の洋服ダンス。洋服ダンスの上に並んでいる化粧水やアクセサリーが入ってるカゴ、テーブルに置いたままの少し前のファッション誌。そんなものをタワンは物珍しげに眼で追っていた。

「どうぞ、座って」
 マグカップを両手に持って、ソファに促す。薄いクリーム色のカーテンと同色のソファに腰掛けたタワンの浅黒い肌、黒い髪、ネイビーのダウンジャケット。全体的に淡い色でまとまった室内の中で、タワンだけ浮き出てるような違和感がある。
 ファッション誌の隣にバラバラと散乱していたダイレクトメールや領収書をまとめて隅に重ね置く。留守にしてる間にポストにたまっていた郵便物は、まだちゃんと目を通せてない。
「ありがとう」
 コーヒーを受け取るタワンの指先があたりそうになって、その手前でサッと指をひっこめる。とっさにうつむいたから、タワンがどんな顔をしていたのかは見れなかった。
 ずず、とコーヒーをすする音が静かな室内にこぼれる。ヒーターが頭上で唸る低い音。冷えた室内はまだ暖かくならないから、タワンはダウンを着たままだ。
 ことん、とマグカップを置くその指を目で追った。浅黒い指を見て、あぁタワンだと思って、それだけで泣きそうになる。
「悔しかったよ」
 唐突にタワンは言って、痛みに耐えるように眉を寄せた。
「僕は君の恋人なのに、どこに住んでるかも知らなかった。彼が結の住所を知ってるのも嫌だ」
 そうか、とぼんやり思う。どこか見覚えのある未登録の番号。あれは高志の番号だった。とっくに削除していたから名前は表示されなかったけど。
 いや、本当に気になってるのはそんなことじゃない。
 マグカップを持つ手が震えた。
「……恋人って」
「もちろん僕だ」
 タワンはマグカップを握りしめる結の手に手を重ねた。前もこれと似たようなことがあった。白い肌に重なる黒い手を見る。  
 屋台の喧騒の中、手を握られて言われたことがよみがえる。

 君が好きだ

 ぼろ、と涙が零れた。顎を辿って、黒いコーヒーにぽとんと落ちる。
「瞳さんは……?」
 結の手に手を重ねたまま、タワンは訝しげに首を傾けた。
「高志さんから聞いたのか? 付き合うわけないじゃないか。彼女はまだ高志さんが好きなのに」
 結の手の甲の上から、タワンが指を絡めてくる。いつもより冷たい手。寒かったから。
 ちがう。
 重ねられたタワンの手は、小刻みに震えていた。
 どんな時も笑みを崩さない支配人の目が苦しげに歪む。
「許してほしい」
 タワンの手が冷たい。冷たいまま結に絡みついてくる。
 緊張してるんだ。
「父さんから聞いたよ。僕が出て行った後、君がなんて言ったのか」
 ふ、と口を歪めて、笑顔を作ることに失敗している。
「騙すなんてひどいじゃないか」
 鼓動がうるさい。まばたきをしてもう一度流れた涙を、タワンの親指がそっと拭った。あとからあとから落ちる涙の雫がニットの胸元を濡らしていく。いつもペンダントをかけていたその場所に、今は涙の跡だけが流れる。
 タワンも同じことを考えたのか、ツゥと胸元の涙の跡を指でたどる。びくん。体が揺れて、タワンと熱を分け合ったあの夜のことが頭の中を駆け巡る。頬が赤く染まった。
「もうあのペンダントはつけてくれないの?」
 タワンが悲しげに目を伏せる。服越しに触れてるはずの、尋常じゃない速さの鼓動がこの人にはわからないんだろうか。
 そう思って力なく笑ったら、また落ちた涙がタワンの爪で光りながらはじけた。
 タワンが片手でそっと、結の手からマグカップを抜き去る。ささやかな障壁がなくなって、二人の距離がぐっと近くなった。

「ユイ」
 何度も呼ばれた名前。少しだけ独特のイントネーションがかかる。それはタワンだけが奏でられる小さな音楽のように、結の心を震わせる。
「これからも僕はあのホテルでがんばるよ。それでいつかきっと、父さんの後を継ぐ」
 そうはっきり告げたタワンが愛しかった。胸によぎる切なささえ、どこか心地いい。
「ずっと、応援してる」
 どこにいても、変わらない。たとえ会えない距離にいても。

 きっとまた泣いてしまうだろうけど、今はどこか満ち足りた思いでタワンを見つめた。
 けれどタワンは、なぜか顔を歪めて一瞬下を向いた。下を向いたまま、長く息を吐く。上がった肩と腕に力がはいっていて、タワンの全身に漂う緊張が解けてないことを知らせている。

「ユイ」

 そしてもう一度名前を呼ぶ。何度だって聞いてたいと思った。
 あなたが私の名前を呼ぶその音を。
「なに?」
 この小さなアパートには不似合いな人。南の国の、高い天井とシャンデリアと大理石の床が似合う、結の好きな人。
 タワンは結をまっすぐ見つめた。黒目が一段とその深さを増す。

「僕と結婚してほしい」

 言われた言葉を翻訳した、この耳と頭がおかしくなったんじゃないだろうか。
 タワンは固まる結の両手を自分の両手で包みこんだ。花器いっぱいの蘭の花を抱え上げる時のように、そっと。
「僕が働くあの場所で、ずっと一緒にいてほしいんだ」
 なにも言えずに呆とタワンを見返す。
 タワンは少し焦ったように顔を近づけて、眉を浅く寄せた。
「返事は、チャイかカーで」
 チャイかカーって。おもわず苦笑する。
「両方イエスじゃない」
「チャイ(そうだ)」
 ふざけたように答える間も、タワンは判事の判決を待つ人のような顔で結を見ている。頬が前よりもこけた気がする。一番最初に会ったときの結のように。
「実は、ちょっと困ってるんだ」
「なに?」
「君に会ってからまだ、一度も好きだと言ってもらえてない」
 結の両手を握る手が強まる。冷え切った手から滲む汗は、どちらのものなんだろう。
「ユイのことを信じなくてごめん。なんて馬鹿だったんだろうって思ったよ。死ぬほど後悔した」
 懇願するようにタワンが言う。その言葉を否定するように首を横に振った。あんなふうに言われたら、誰だって裏切られたと思うだろう。

 それなのに、来てくれた。

 胸が熱くなって、嬉しくて、それと同時にためらいが生まれる。
「本当に、いいの?」
 ずっとずっと隣に、結婚という形で一緒にいることを選んでもいいんだろうか。
 おずおずと尋ねたその問いに、タワンがはじめて大きく笑みを浮かべた。
「少しだけ、帰化のことも調べたんだ。もし結が本当に望むなら、時間はかかるけどできないことじゃない」
「そんな!」
 愕然として大きく首を横に振る。最後に結が放った言葉が、タワンを傷つけたんだとわかった。帰化するなんて、あの国を捨てさせるなんて、そんなこと絶対にあってはならないのに。
 どんな気もちで調べたのか、考えただけで涙が滲む。タワンは結を安心させるように微笑んで、
「うん、でもやっぱりやめた。僕は外国人で、外国人のユイを愛してる」
 
 タイを知ることは、タワンを知っていくことなのかもしれない。そう思ったことがある。
 まだまだ知らないことがある。あの国も、そこで生きるタワンのことも。
 だけど、これからの時間全部をかけて知っていくことができるなら。
 それを選んでもいいと言うのなら。 

 握られている手を振りほどくように離して、そのままタワンの胸にとびこんだ。
「タワン」
 首の後ろに両手を回す。勢いをつけてしまったけど、タワンはしっかりと受け止めてくれた。背中と腰を抱く手。心地よくて、ここが、ここだけが自分の場所なんだと思った。
「愛してる」
 日本の言葉で言った。最初から繋がってるわけじゃないところを努力で補い合って、通じた言葉は彼の胸を震わせる。
「ずっとそばに、いる」
 このために買ったのか、ダウンジャケットは新品の匂いがした。鼻先をかすめるいつもとちがう匂いを感じていたら、顎に添えられた手が上を向かせる。閉じた瞼から一筋の涙が耳の脇を横切った。
 唇がひたりと重なって、それはまるで誓いのキスのようだった。
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