恋するバンコク
 スマホの着信履歴の一番手前にある数字の羅列。未登録の番号を、タップして通話を呼び出す。数回のコールの後、
「もしもし」
 まだ眠っていたんだろうか、出た声は少しかすれている。とはいえ人のことはいえない。結もまだベッドの中だ。
 右側で眠っている相手を起こさないように、そっとベッドを出る。二人分のぬくもりであたたまった布団の中とちがい、室内は冷蔵庫のように寒い。慌てて近くに置いてあるカーディガンを羽織った。
「高志?」
 スマホを耳にあてながら、カーテンの裾を少しだけ引く。冬の朝はなかなか陽がのぼらない。バンコクなら今頃はもう、白っぽい光が街中を照らしている時間なのに。
 電話の向こうで、身じろぎするガサリという音がする。高志は声をひそめるように小さな声で、
「どうしたんだ?」
「おととい、電話くれたでしょ」
「あー、そう、あの支配人が、結の家知りたいっていうから。行く前に言っといたほうがいいかなって思って」
 やっぱり、と頷く。カーテンから手を離して、リモコンでヒーターを点けた。ピッという音が室内に大きく響いて、寝ているひとが起きないか心配になる。振り返って首を伸ばしても、ベッドの右端で眠っている彼は起きる様子がない。安心して、ソファに座った。

「うまくいったのか?」
 高志が小さな声のまま聞く。もしかして自分と同じように、近くに誰かいるのかもしれない。聞いてみたい気もして、けれど口は別のことを言った。
「もうこれからは、私に電話とかしてこないでほしいの」
「え?」
 高志とはいろいろあって、最後はお互い友だちのように励まし合ったりしたけど、このまま馴れあっていくのはちがう気がした。やっぱりどうあっても高志と二年関係をもっていた過去は拭えない。きちんとけじめをつけたかった。
 ヒーターが低い音を立てる。少しの沈黙の後、高志は言った。
「そうだな」
 少しだけ感傷に浸ってるような声に苦笑する。ほんとにこの男は。
「高志」
 これからもがんばってね、とか、そういう言葉で終わらせようとした時。
 後ろからスルリとスマホが取り上げられた。
「もうユイはぼくのものなんで、彼女のことは忘れて瞳さんだけに集中してください」
 そう言うと、ブツリと通話を切る。そのまま親指で操作すると、番号を削除した。
「……タワン」
 呆気にとられてタワンを見ると、タワンはニコリと笑ってスマホを結に返した。直後、大きなくしゃみをする。
「ナーウ(寒い)」
 そう言って結で暖を取ろうとするように両腕を巻き付けてくる。タワンはボクサーショーツ一枚の格好だ。結のパジャマは小さくて着れないので、一晩中ユイを抱きしめてるからいい、と言って本当にそうした。そう言われたあの時は……直前にいろいろあった熱に浮かされて正常な判断ができなかった。それならそれでいいかな、と頷いてしまったのはどう考えてもまちがいだった。

「大丈夫?」
 風邪ひかないといいけど。そう思いながら冷えたタワンの両腕に両手を回して、ごしごしと擦る。昨日やってあげたいとおもったこと。
「ダイ、ダイ(大丈夫)」
 タワンはにこっと笑って、それから壁の時計を見た。
「もう行かないと」
 その言葉に黙ってうなずく。
 年末年始の一番忙しいときに、支配人のタワンが何日も休めるわけない。本当にたった一時のために、駆けつけてくれた。
 堪えたさみしさが、それでも滲んでるだろう頬に、タワンはそっと手を添えて唇にキスをした。
「本当は一緒に連れて帰りたい」
 苦笑してかぶりを振る。相手も自分と同じだけさみしい、そう知るだけで心が和らぐのはなぜだろう。

 コンビニのバイトでも、深々とお辞儀をしてお客を見送っている以上急に辞めることはしたくない。この間みたいに急に消え去るのはナシだ。それに手続きとか家族への報告とか、これからやることは目白押しだ。
 そう、さみしがってなんかいられない。一緒にいられる長い時間まで、あともう少しの辛抱だ。

 目が合ったタワンが、甘く微笑む。そう、彼もわかってる。これはさよならじゃない。今もうここから、始まってる。
 全部終わらせたその先に、このひとが待っている。
 そうしたらあとはもう、ずっと一緒だ。
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