「恋って、認めて。先生」

 夏期講習が終わると比奈守君に会える機会はなくなった。私自身も仕事が忙しくなってきたので、恋愛のことばかり考えていられなくなった。

 1日一度は必ず彼のことを思い出したし、比奈守君に会えなくてどうしようもなく寂しい時もあったけど、仕事多忙のおかげで気が紛れた。残業も増え体力的にもハードだったけど、悩む時間を作る隙がないのは良かったのかもしれない。

 距離を置いて何が変わったのか、やっぱり今でもよく分からないけど、私は毎日のようにこう願った。比奈守君が夢を叶えてくれますようにーー。


 そんなある日のことだった。生徒達の夏休みも残りわずかとなった頃、琉生が自宅に招待してくれた。琉生のご両親は仕事でいなかった。

「純菜は休日出勤だって。一緒に来られなくて残念だよ」
「今日は特別に飛星だけ呼んだからそれでいいんだ」
「え……?」
「久しぶりに俺のピアノ聴いてけよ」
「いいの!?」

 琉生とはしょっちゅう会っているのに、彼の自宅に行くのは数年ぶりだった。

 グランドピアノが置いてある琉生の自室に通されると、琉生はピアノに向かい、色々な曲を弾き始めた。有名どころからあまり知られていない曲まで、様々なメロディーが室内に満ちる。

 昔、同級生の男子達はピアノが得意な琉生を見て男のクセに女みたいとバカにしていたけど、私は昔から琉生のピアノが大好きだったので、そうやってバカにされる琉生を見るたび悲しい気持ちになっていた。

「こうやって琉生の生演奏独り占めできるの、すごく贅沢な気分」

 つぶやき、私はピアノの音色に耳を澄ませた。

 中学の頃、学年やクラスで行う合唱のピアノ演奏者に推薦されるほど上手な弾き手だった琉生のことを自慢に思っていたし、他にも様々なコンクールで上位入賞を果たした琉生は、絶対ピアニストになる夢を叶えるものだと信じていたーー。

 ベートーヴェンの「月光第三楽章」を弾き終えた琉生に拍手を送ると、激しい音色の余韻に浸りつつ、私はそっと尋ねた。

「どうして今日、私だけ呼んで演奏してくれたの?」
「最近元気ないように見えたから。ピアノの音には癒し効果があって、音楽療法などにもピアノの演奏が用いられてる」
「そうなんだ!音楽ってすごいね……!」

 感心しつつ、私は自分の顔を両手で触る。私、そんなに疲れた顔をしてたのかな?

「じゃあ、続けるぞ」

 琉生は微笑し、次は優しい感じの曲を弾き始めた。リストの「愛の夢」。水の流れのように、星のきらめきのように、切なさを漂わせながら音が沈み、また空に浮き上がる。

 ここのところ色々なことがあって心が荒れそうになっていたけど、琉生の弾くピアノは自然と心にしみわたり、私は無心になれた。
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