マネー・ドール

 間もなくして、真純は企画部に異動になったらしく、仕事に没頭し始めた。毎日毎日遅くに帰って来て、家でも部屋に閉じこもって、企画書を書いていた。料理もしなくなって、ドイツ製のシステムキッチンにはいつしか埃が積もり始めて、食材で溢れていた巨大な冷蔵庫も、賞味期限切れの物を捨てると、何もなくなってしまった。掃除も洗濯も、ほったらかしで、仕事に没頭していた。もちろん、俺との時間も……一秒たりとも、なくなった。

 ある日の出張帰り、直帰の許可が出て、四時頃に家に帰った。家に帰ると、洗濯機と掃除機の音がしていた。
「真純? いるのか?」
その声に寝室から出て来たのは、見知らぬおばさんだった。
「あ! ご主人ですか! あの、今日からお世話になります。森崎と申します。よろしくお願いします」
え? もしかして……
「佐倉です……あの、家政婦さん?」
「はい、週三日、こさせていただきます」
森崎さんはそう言って、寝室へ戻って行った。
まじか……あいつ、勝手に家政婦なんか!
「あの、森崎さん、何の契約してるんですか」
「お掃除とお洗濯です」
「そうなんだ……あの、俺の部屋はいいから。それ以外、よろしくお願いします」
信じられない。家に他人をあげるのに、相談もなしに!
「旦那様、それでは失礼いたします」
「ああ、ご苦労様でした」
 森崎さんを玄関で見送って、コーヒーを淹れた。キッチンの埃は無くなっていて、家電も綺麗になっていた。俺は真純に一言いいたくて、ずっと待っていたけど、真純はなかなか帰ってこなくて、腹が猛烈に減ったし、コンビニに弁当を買いに行った。温めてもらった弁当とビールを買って、ちょっと雑誌を立ち読みして、家に戻ると、真純が帰っていた。真純はノートPCを見ながら、リビングで菓子パンを食べていた。

「帰ってたのか」
「うん」
俺と真純はリビングのソファに座り、黙って『夕食』を食った。
「家政婦、勝手に契約したのか」
「ああ、今日からだっけ」
「一言くらい、相談があってもいいだろ」
「したくてもいないじゃん。いっつも」
「そ、そうだけど……」
「松永さんから連絡あると思ってたの」
「は?」
「松永さんにお願いしたから」
なんだよそれ……俺じゃなくて、松永さんに相談かよ……
「真純、そんなに仕事忙しいのか」
「うん」
「家政婦、雇わなきゃいけないのか」
「あのさぁ……じゃあ、あなたがやるわけ? 掃除やら洗濯やら。何もしないじゃん。今まで、家事なんてやったことないじゃん」
「忙しいんだよ!」
「私だって忙しいの」
「じゃあ仕事なんかやめろ!」
「あなたの稼ぎだけでやっていけるならね」
「なんだと!」
「大声出さないで。明日、大事なプレゼンがあるの。準備しないと」
真純は食べ終わった菓子パンの袋と缶コーヒーを、ゴミ箱へ捨てた。
「真純、話はまだ終わってない」
「もう、何? 手短かにお願いします」
「家政婦、いくらかかるんだ」
いや、ほんとは金の問題じゃないんだ。
「月、十万だったかな」
「十万……自分でやればいらない金だろ?」
金が惜しいわけじゃない。
「私にやれっていうの?」
「俺も協力するから」
他人にこの家に入られるのが嫌なんだよ……俺達の家に、他人が……
「協力って……あくまで嫁さんの仕事って前提ね。バカバカしい。話す時間もムダ。もういいかしら?」
真純はそう言って、ノートPCを持って、部屋へ行ってしまった。部屋から、誰かと電話する声が聞こえた。仕事の話をしている。本気で仕事に没頭しているらしい。
これって……もう、夫婦の意味、ないよな……
一緒の空間にいるってだけで、もう他人と変わらないじゃないか。お互い違う部屋で違うことをして、金で雇われた他人が掃除と洗濯をして、別々の物を食って……違うことを考えてる。
俺は、こんな生活をしたいわけじゃなかったのに……真純、お前はこれでいいのか? お前は、これで……幸せなのか?

 俺はまた、オンナを抱き始めた。そうするしか、俺の気持ちを抑えることができなかった。そうしないと、俺は自分がどうなってしまうのか、怖かった。行きずりのオンナや、店のオンナ。誰でも抱いた。見た目のいいオンナなら誰でもいい。でも、俺の気持ちは埋まらないどころか……虚しさはどごでも深く、広がっていった。だから、俺は酒を飲んだ。
 体はオンナで埋め、心は酒で埋めた。
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