残業しないで帰りなさい!

しまった!
私、家、間違えちゃった!

最初に思ったのはそんなことだった。

急いでバッと上見げると部屋番号は、308。

理屈で考えるより先に何かに気が付いた。でも、体がついていかない。身動きができないまま視線を下に降ろした頃、扉が動いた。

ガチャッ。

扉を開けて顔を覗かせたのは、小さくてまつ毛も目がパッチリした可愛らしい女性だった。

思わず唾を飲み込む。
目を大きく見開いたまま微動だにできない。

手元から買い物袋が滑り落ちてガシャッと不快な音を立てた。

こういう時に手に持ってる物を落とすのって本当なんだ。なんてくだらないことには思考回路が働くのに、あとは真っ白。

可愛らしい女性もじっと私を見ている。

「あのー……」

訝しげに私を見ながら、女性が少し唇を尖らせて言ったその声を聞いて、ハッとした。

「す、すみません!間違えましたっ!」

私は勢いよくバッと頭を下げて、急いで買い物袋を拾い上げると、早足でエレベーターに向かった。

後ろで「かちょー」って言ってるさっきの女性の声が聞こえる。

間違いない……。

間違いないよね?

『課長』って、翔太くんのことだよね?
営業課長だもんね?

あの人誰?
すごく可愛い人。
東京本部の営業課の人?

翔太くん、どういうこと?

女の人が家にいるってどういうこと?

やっぱり、そういうこと?

私以外にもお付き合いしている人がいるってこと?

久保田係長のことはもう心配してなかったけど、まさか違う人なんて……。

それとも同時進行じゃなくて、もう私のことは切り捨てるつもりだった?
だから最近会えなかったの?
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