今宵、闇に堕ちようか
 さえこが帽子を目深にかぶる。まるで冷たい目つきを隠すかのように、ニット帽のつばでさえこの表情が隠れた。

「院長が独身で、不倫も恋愛において許容範囲なのは知ってる。けれど私は違うから。家庭を壊す気はないの。今の生活に満足しているから」
「セックスレスなのに?」

 以前に酒の席で、聞いたことがある。かれこれ2年以上、セックスレスだとか。それなら今日のキスくらい、どうってことないはずだ。

「それは関係ないでしょ」
「どうだろう?」

 ここでキスをして、体が火照れば、旦那との夫婦生活がよみがえるかもしれない。

「俺も結婚してた時はセックスレスだったけど、ないよりはあったほうがいいんじゃねえの」
「それは家庭によりけり。うちはいいの、これで。無いのは無いなりに理由があるの。私には不満がないから」

 さえこがケーキの箱を顔に近づけて、にっこりと笑った。いつも見ているさえこの表情に戻った。
 さっきの氷のような瞳が気にかかる。

「旦那には不満があるのに、生活には不満はないと?」
「そう。セックスがないことに不満を感じてるわけしゃない。旦那の性格に不満があるの」
「じゃあ、なんで別れない?」

 パートナーに不満があるなら、別れればいいだけの話だろ。

 さえこの視線が下に落ちる。自嘲の笑みを浮かべて、ふっと息をもらした。

「ふつう、わかりきった理由きく?」
「子供、か」
「あたまりまえ」
「子供の存在は大きいんだな」

 俺も、子供がいたら今みたいな生活じゃなかったのかもな。


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