強引社長の甘い罠
第六章

拾った時計

 まさか自分の人生において、一度でもこんな体験をすることになろうとは想像すらしていなかった。
 夕べはリビングから眺めるだけだったこのスイートルームのテラスで、私は遅めの朝食を取っている。朝食が用意される前に時計を見たときは九時半だった。

 今日は火曜日。普段だったらとっくに会社にいて仕事をしている時間帯に、私はこうして秋の風を肌で感じながら、ホテルで優雅にスクランブルエッグを頬張っている。こんな状況じゃなかったら、夢みたいに素晴らしいこの体験に私は馬鹿みたいに興奮していただろう。だけど実際はむっつりと押し黙り、黙々と口を動かしているだけだ。夕べ激しく泣いたからだろうか。幾分食欲が戻っていることにはホッとした。

 ガラス製のドア脇には、ショートカットで背が高くスレンダーな女性が立っている。グレーのスーツをきっちりと着込み、ピンと背筋を伸ばして真っ直ぐ立つ彼女の名前は、浜本さんと言うらしい。そしてここからは見えないけれど、このスイートルームのロビーを出たところにも一人、男性がいるはずだ。屈強な体つきの彼の名前は……忘れてしまった。

 最後の一口だったクロワッサンを口に入れたところで、入り口に立つ彼女、浜本さんをちらりと見た。私と目が合ってもにこりともしない。私は今朝のことを思い出して深々と溜息をついた。
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