楓の樹の下で
第七章 “加速”
今日から新一年生の学校生活が始まる。

教室の前で森山 月子は襟を正し背筋を伸ばした。
産休の先生の代理で去年一年間この学校で先生をした。頑張りを認めてもらえて今年から新一年生の担任に抜擢された。
凄くうれしくて、その日はなかなか眠れなかった。
でも、嬉しいことだけではなかった。
次の日校長から呼び出され 山科 日向の事を聞かされて気付いた。
面倒くさい事を押し付けられたのだと。
校長は悪気もなく、笑いながら言った。
「いやぁ他の先生方は皆さん懸念されてね…そんなとこに森山先生がいたってわけですよ」

『はぁぁぁぁ?ふざけるな!』

と、思っても言えるわけもなく、私は頑張りますと笑い返した。

テレビのワイドショーや、雑誌を幾度となく見ていた。
この区域内のことである事も知っていた。
でもまさか、自分が関わりを持つことになるなんて思ってもみなかった。
とにかく、被害者である山科くんの心が傷ついたのは間違いない。
学校では私がしっかり支えなくてわ!

少し気合いを入れて教室の扉を開けた。
小さな子供たちがキラキラした目で一斉にこちらを見る。
去年は四年生だったけど、一年生ってこんなにも小さくかわいいんだと胸がキュンとなる。
私が先生だと、わかったのだろう。それぞれが席に着き正面に向き座る。
一斉に注目を浴びて少し緊張する。
ゆっくりと教室へと入って黒板の前に立つ。

みんなの顔を一人一人見ていく。
緊張で少し固まっている子、ニコニコと笑顔を向けてくる子、目が合うと恥ずかしそうに顔を背ける子…
えっ……あの子。
一人だけ私を見据えてる子供の目がある。
他の子たちと明らかに違う空気がする。
急いで名簿を広げる……あの子が、山科 日向…。
実際は9歳だと知っていたけど、何処からみても周りと何ら違和感がない。
いや、むしろ周りより、ひとまわり小さく感じる。
一体どんな虐待をあの子は受けていたんだろうと思うと、辛くなった。

「先生の名前なんですか?」

黙ったままの私に目の前の席の子が話しかけてくる。

「あっごめんごめん。ちょっと先生緊張しちゃって、名前言うの忘れてたね!」

子供たちが笑う。
山科 日向を除いて。
あの子だけが笑わない。ずっと私を真っ直ぐに見据えたままだ。

「では、自己紹介します。先生の名前は森山 月子って言います。よろしくお願いします。」
「よろしくお願いします。」

子供たちが私の真似をして、同じ言葉を繰り返す。

「じゃみんなの自己紹介は入学式が終わってからしたいと思います。さっまずは講堂で入学式!みんな廊下に出て並んでください。」
「は〜い」

元気な返事をすると、みんなが廊下へと出ていく。


式は滞り無く済み、教室へと戻ってきた。
それから一人一人の名前を名簿を見ながら呼んでいく。
自分の中で顔と名前を一致させながら。
「先生が名前を呼んだら、元気に返事をしてください。あとは、そうだなぁ好きな事とか、好きな食べ物とか教えてほしいな」
そう言うと、子供たちはえぇっと、とそれぞれが言う事を考え始めた。
あの子の番になった。

「山科 日向くん。」
「はい。えぇっとボクの好きな事はテレビの××レンジャーを見ることです。」

周りの数人がオレも好き!ボクも…と、声を上げる。

あれ、凄く普通の子だ。
被害者の子という目線で見過ぎてたと思った。
あの子はもう先に進んでるのかもしれない。
子供の成長は早いというから。
全員の紹介が終わる。

「はい、ありがとう。では今日はここまでです。お勉強は明日からです。明日から一緒にお勉強していきましょう。」
元気な返事が返ってくる。
それぞれが帰り支度をし終えた子供から、さようならと挨拶してから帰っていく。
廊下に出て一人一人に返事を返して見送る。
子供の列が途切れた。
教室に戻る。

心臓が止まるかと思った。
やっぱりあの子が座ったまま、また私を見ている。
「山科くん?どうしたの?」
声を掛けるとゆっくりと立ち上がると、こちらに歩いてきた。
意味のわからない恐怖が湧いてくる。
ゴクっと唾が喉を通る音がした。

目の前で止まると、私を見上げた。

「先生はボクの事件のこと知ってるんだよね?」

少し声が震えているのがわかった。
腰を下ろし目線を下げて話す。

「はい、知ってます。けれど、山科くんと事件のことは別だと、先生は思ってます。」
「別?」
「そうです。別ではないのだけど、別と思ってるの。山科くんは山科くんだから。事件の子とは思わずに、みんなと同じように接するつもりでいます。だから、山科くんも心配しないで、みんなと一緒に色んなことをここで学んでください。」
私が言う言葉をどこまで理解したのかわからないけど、山科くんは、わかった。ありがとう。と、言って帰る準備をしさようならと帰って行く。
廊下でさようなら、気をつけて帰ってね。と声を掛けると、振り返り手を振ってきた。
なんだ、あの子も怖かったんだと思った。
素直で真っ直ぐな子だったんだとわかると、今日一日の緊張がフッと肩から力が抜けた。
まだまだ明日からが本番だと、気を引き締め教室を出て私も家路へと歩いた。

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