楓の樹の下で
瞬が言った言葉が耳に残っている。
すぐに瞬に何か気付いたのかと、聞いた。
でも四歳の子供には誰かに想いを伝えるには、あまりにも言葉を知らなすぎた。
「う〜ん、なんとなく。」
そう言って黙ってしまったのだ。

家庭訪問で担任の森山先生が言う日向は誰もが知ってる日向の事ばかりで、疑う余地がなかった。
帰り際の先生に聞いてみたけれど、大丈夫です。と言い切った。
日向は違う日向になったという確信が疑心暗鬼へと変わりつつある。

家庭訪問が終わると、すぐに朱里に買い物を頼まれた。
ノートやサインペンなど色んな文具を頼まれたので、駅近くの大型雑貨店に行こうと向かう。

今のはどうゆう事だ?!
女性の悲鳴とともに30メートル程先、歩道橋の階段を男が転がり落ちてくる。
その階段の上に日向が立っている。
どうしてこんな所に日向がいるんだ?
確か友達のところに行くと向日葵を出たじゃないか。
駅の方は交通量も人も多く危険だからと、一人ではおろか子供たちだけでは絶対に行ってはいけないときつく言い聞かせていた。
なのに、どうしてこんな所にいるのか…いや、そんなこと、もはや何の意味を持たない疑問になった。
日向が笑ったからだ。
落ちて行く男を見ながら、あの時見た歪みを再び俺の前で浮かべた。
咄嗟に気づく。
落ちたんじゃない、落とされたんだと。
日向に押されて落ちたと…。

日向が道路の向こう側へと走り出す。
その先にさっき会ったばかりの日向の担任 森山 月子がいた。
なんで彼女が?
日向とぶつかり何かを話すと、日向はご機嫌な表情を浮かべ向日葵の方角へと帰っていく。
森山 月子の体がゆっくりと下に下がっていく。
座ったのだろうか、姿が見えない。
彼女の元に行く階段は人だかりが出来ていて塞がれている。
道路を挟んで向こうの道をスキップしながら帰る日向を目で追う。
いや、今は日向より森山さんの方だ!
先生が立ち上がりフラフラとした足取りで階段を下りて行く。
駅の方に向かっているのだと気付く。
見失わないように、後を追って行く。

人混みが行くのを邪魔する。車の往来が視界を邪魔する。
少し進んだところで、向こう側に渡れる場所があった。
駅に行くのが正解なら、その手前で曲がってしまう。
俺は走って遠回りし向こう側に渡った。
一気に近くなる。でももうすぐ改札に入ってしまう。
力を振り絞り距離を詰めて腕を掴んだ。
振り返った森山は恐怖で覆われた表情で俺を見ると、その場に崩れ座り込んでしまった。

「えっ大丈夫ですか?」
「…やだ…ごめんなさい。気が抜けちゃって…鏑木さんで、よかった……。」
そう言うと、彼女は周りの目も気にせずボロボロと涙を流した。
周りの人たちが注目する。
そりゃ見るだろ。逆なら俺も見てしまう光景だ。
一組のカップルが痴話喧嘩?いや、ストーカーだろ?と笑っている。
掴んだままの腕がそう見えるのか……。
「あの先生?泣き止んで立ちませんか?」
「ごめんなさい。ホッとしてしまいました。」
泣く程ホッとするなんて、この人は確実に何かを見たんだと確信した。
「ちょっとお話ししたいので、お時間大丈夫ですか?」
「……はい。構いません。」

近くにあった喫茶店に入った。
俺は走ったせいで喉がカラカラでアイスコーヒーを彼女はホットレモンティーを注文した。
「あの、お話しっていうのは?」
「帰ろうとしてたみたいでしたけど、家庭訪問は終わったんですか?」
ビクッと体が動いた。
今にも泣きそうな声で
「ちょっと体調が優れなくて…。」
「それなのに俺とお茶してていいんですか?」
つい探りを入れた言い方になってしまう。
案の定、彼女は黙ってしまった。
注文したものが運ばれてきた。
俺は単刀直入に切り出した。

「日向を見たんですよね?」
俯いていた彼女は弾かれた様に顔上げると、俺を見て、頷いた。
「何を見たんですか?日向はなにを…」
したのか…それを聞いて俺は受け止めれるのだろうかと、一瞬考えて言葉を詰まらせた。
あの男性を突き落としたと思ってはいる。けれど、どこかで違うと思いたい自分もいるから、聞きたくないと思ってもいる。
一呼吸して森山 月子が口を開いた。
「いいんですか?お話ししても…」
俺の迷いを見透かした口調だった。
覚悟を決めて聞いた。
「はい、聞かせてください。」
「私が見たのは…」

森山 月子が話した内容は信じるにはあまりにも強烈過ぎた。
きっと見た光景を一つも逃さず俺に伝えている。
記憶を戻したあの朝からの違和感がこんなことに繋がるなんて思ってもみなかった。思うわけないに決まってるだろ!
どうして、どうして日向はそんなことをしたんだ?
どうして……。
「あの…鏑木さん大丈夫ですか?」
「森山さん!!今日見たことは誰にも言わないでください!見なかったことにしてください!」
俺は懇願した。
日向を守りたいとか救いたいといった、感情はもうない。
なにかこちらが行動に移せば、こちらが危ないと思ったからだ。
そのことを伝えると
「そうですね。わかりました。言いません…私も少なくとも、その恐怖は感じたので…。」
そう言って、すっかり冷めてしまったホットレモンティーを口に運んだ。
その後俺たちは番号を交換し別れた。

向日葵に変えれば日向がいる。
今日あの場所に俺がいたことなんて日向は知らない。
普段通りにすれば、いいのだ。
すっかり遅くなった。朱里に頼まれてた物を買って急いで帰った。
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