元教え子は現上司
「恋しないんだって」

 そう言ってユナが顔を上げた。
「リーダー、聞いてる~?」
 暁は顔を上げずに軽く頷いた。
「聞いてますよ」
 三十分くらい前に碧が退勤してからも、暁、ユナ、深見の三人は残業をしていた。フロアにいる人はまばらになる時間でも、昨日のように定時退社した場合はどこかでカバーしないといけないくらいは仕事が詰まっていた。

「え~なになに?」
 深見がデスクトップの向こうから顔を出す。
「だから、恋愛しない宣言ですよ、あのアラサー」
 ユナが口を尖らす。
「どうおもう~? ユナからしたらありえないんですけど」
「まぁユナちゃんだったらねぇ。ありえないよね~」
 ハハハ、と深見が笑う。
「でもなんでだろうね? 言っても僕らまだ三十代前半でさ、まだまだラブバトル現役生のつもりなんだけどぉ」
 ラブバトルってなに~、とユナが笑った後、
「ね、リーダー、なんでだと思う~?」
 とこちらを向いた。

 自分の指先がわずかに揺れたのがわかる。
「なんで」
 声がかすれてしまった。舌打ちしたい思いをなんとか堪えて、
「なんで僕に聞くんです」
「なぁんか、視線? 的な?」
 ユナがきれいにネイルした人さし指を口元にあてて考える。

「だってしょっちゅう見てなぁい? ひぃちゃんのこと」

 あれ、これユナさっきも言わなかったっけ? とユナが言ってるのを聞き流す。
 心臓がギュッとつかまれたような感覚。もう長いことなかった、そんなもの。

 苛立たしい。

 はぁっと息を吐いて正面を見ると、深見と目が合う。身構えたときには遅かった。

 深見はニヤッと笑って頬杖をつく。
「昨日ちゃんと送ってあげたの? ひぃちゃん」
 おもわず眉を寄せる。
「そんなことしませんよ」
 彼女がどこに住んでるのかも知らない。いや、手元にある履歴書のコピーに目を通せば、すぐにわかることだ。
 でもしない。絶対に。

「なぁーにやってんのさ」
 深見が大げさにため息をついた。
「いいから仕事してください」
 言いながら、裏返った社員証がノートパソコンに置いてあるデスクに目をやった。ユナの向かい、深見の隣。
 久松碧の席。 

 髪、切ったんだな。

 それが本人を見て、一番最初におもったことだった。八年前は胸の下まであったストレートの髪は、耳下で切りそろえられていた。いまどき高校生でもしないようなおかっぱヘアー。
 あの髪の先を弄んで笑った記憶が、面接中の会議室で自分の思考を乱したことなんて、だれにも知られたくない。
 バカみたいだ。いや、ずっとバカだ。八年前のあの日から。

 目が合うだけで、死にそうになる。
 十六歳のときからなにも変わってないような気がする。
 強く目を閉じる。あの頃の自分とはちがうんだ。そう言い聞かせながら。

 恋しないんだって。ユナの声が頭の中で再生される。
 それは、なぜ?
 聞いたら、答えてくれるのだろうか。遠い昔に、簡単な質問にも丁寧に答えてくれた彼女なら。

 聞かないで、ください。

 昨晩の彼女の声がよみがえる。固い声。自分はまたしても拒否されたんだ、と感じた。挙句に社内で人気がどうとか、そんな話をされた。まったく無邪気な顔で。
 体の中を火が駆け巡ったようだった。不用意な発言をしないように、普段からあれほど気をつけているのに。

 思い返して、無意識に拳を握りしめる。弾みでタイプミスをした。急いで削除して、そのまま猛然とキーを叩く。ユナと深見のからかうような視線を追い払うように。わかってる、まだまだ形ばかりの上司だってことは。

 やるべきことに集中しないと。
 もう八年前の俺じゃないんだ。
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