元教え子は現上司
会社を出る頃には十時になろうとしていた。覚えることが沢山あって頭が重くなっている。それでも今までとはまた違った面からの教育の仕事に、おもしろそう、という感覚が強く残った。

 今までは教壇に立って生徒の顔を見て授業をしていた。熱意があって自分から質問しにくる生徒には時間を割ける一方で、集中力が続かない子や勉強嫌いな子のフォローはあまりできなかった。自分が教材を作るという立場になれば、一人一人のレベルに沿った勉強方を考えられるかもしれない。

 久しぶりに楽しい、かもしれない。

 アパートの階段を上がる足取りも、自然と軽くなる。元生徒の元恋人が上司という部分にさえ目をつむれば、たしかに瀬崎の言うとおり、教育現場を見てきた自分が考えられる企画はあると思う。

 カン、と最後の階段を上りきる。二階建てアパートの二階、一番奥が半年前から住んでいる部屋だった。学習塾の近くだった千葉から都内に引っ越した分、アパートのグレードは落ちた。女性の一人暮らしだというのに、オートロックはおろかエントランスも無い。両親が見たら心配するだろうな、というくらいの古びたアパートだけど、誰も招待するつもりはないから問題ない。
それよりも、あのままアパートにい続けるほうが問題だった。

 なんかほんとに、逃げてばかりの人生だな。
 三十一歳で、こんなに負け越していていいんだろうか。もうちょっとどうにかならないもんかな。

 カツカツカツ、とヒールが廊下に響く。木造の割に、廊下だけ材質が違うのかやけに足音が響いた。
 部屋の前まで来て、あれ? とおもう。

 扉の前に、クシャッと握りつぶされたタバコの空き箱が捨てられていた。
 白地に青いラインが二本のデザイン。見覚えがある。塾の講師も愛煙家は多かった。そういえば、今の部署の人たちは吸ってるところ見たことないな、と考えながら同時に思い出す。

 ――小川さんもこのメーカーの煙草を吸ってなかったっけ?

 頭に浮かんだその考えを、あわてて打ち消す。
「やだやだ、今のなし」
 一人で呟いて、鍵を探した。鞄から鍵を探すけれど、やたら時間がかかってイライラする。
 ようやく探しあてた鍵を鍵穴にさした。

 ガチャン。

 私はもう、恋はしないんです。

 ふいに、自分の声がよみがえる。
 ドラマみたいな台詞。苦く笑って、扉を閉めた。古いアパートはそっと閉めないと音が大きく響く。わかってるのに、大きな音を立ててしまった。
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