元教え子は現上司
求める想い
 アパートに帰り着くころには、昼間の刺すような暑さもだいぶ和らいでいた。薄桃色に染まる空に、熟した柿のようにぽってりとした太陽が浮かんでいる。
 部屋には飛び出したときと同じように、ダンボールが散乱していた。深くため息をつく。

 これからどうなっていくんだろう。

 手に持つ少女漫画を抱きしめると、また涙が目の端に浮かんだ。
 
 あなたは良い教師だった。僕は今でもそう思っていますよ

 袴木の言葉が頭をくるくると回る。

 がんばりたいなぁ。
 漠然とそう思った。

 諦めたくないなぁ、いろんなことを。

 だけど窓から見える空が黒くなった頃、小川がこの部屋に来てしまう。

 あーあ、と呟いて、そのまま壁に背を預けてずるずると座り込んでいく。
 目を閉じると、十六歳の暁が浮かんで、二十四歳の暁へと変わっていった。
 
 たくさん傷つけてごめんね。
 何度思っても足りないけど、こんなふうにしかできなくて、ごめん。

「八年も私のこと待ってないで」
 もういいよ。他のだれかを好きになって。

 それなのに、想われていた年数を考えて、こんなにもうれしい。 

 少女漫画を抱きしめる。
 生きていける、とおもった。

 これだけで、生きていける。

「ふ……っ」
 また涙が溢れて、手の甲で拭っていると、
 
 ドンドンドン!
 
 扉を叩く音がした。ビクッとして顔を上げる。固まっていると、

「碧!」

 声がした。その声に、ポロリ。涙が落ちる。

「いるんだろ! 開けろよ!」
 余裕のない声。再会したとき、あんなに澄ましてたくせに。素っ気なかったくせに。

 そっちこそ、嘘つき。

 ふらふらと玄関まで行って、鍵を開ける。ドアを開く前に、
 バン!
 勢い良く扉が開いた。

「さと――」
「このバカ!」
 抱きしめられて、声は続かなかった。体が熱い。鼻先に、暁の心臓。熱くて暴れてる。愛しくて大好きで、おもいきりしがみつく。
「さとる」
「ほんっと、そういうとこ全然変わんねぇ!」
 息が苦しい。全力で抱きしめられて、このまま潰れてしまってもいいと思った。
 いやでもやっぱり、顔が見たい。
 そう思って見上げると、泣きそうな暁の顔と目が合った。

「長谷さんが連絡くれたんだ。碧が辞表出したって。なぁ、ほんとやめてくれよ。勝手にいなくならないでくれって、あれほど――」
 ぱたり。音もなく、暁の目から涙がこぼれ落ちた。碧の涙でぐしゃぐしゃになっている頬にあたって、涙同士が溶けあう。
「ごめんなさ」
 言葉は暁の口の中に呑まれて消えた。碧ごと食べようとするみたいな、深いキス。

 そういえば、この子は高校生の頃からキスがうまかったんだと思い出す。誰なんだろう、この子にこんなキスを教えたひとは。こんなときなのに胸が焼けるような思いを感じる。
 でもそれも、暁が性急に喉にキスをはじめてからは立ち消えた。
「さとる」
「許さねぇよ」
 ダンボールの間に押し倒される。きれいな形の目が、燃えるような怒りを宿して碧を見下ろしてる。
「また消えたら許さない。もう二度と離さないって決めたんだ」
 唇の少し上を、噛みつくようにキスされた。息を吸いこむと暁の舌が入ってきて、喉の奥で声が鳴る。
 頭がぼうっとしてくる。袴木の顔が浮かんでくる。

 よかったね、これでようやく幸せになれるね

 幸せになりたい。
 
 想いがこみあげてきて、目尻から涙が流れていく。

 このひとと、幸せになりたい。

「暁」
 両手を伸ばして、暁の頬にあてる。暁は黙って碧を見下ろしていた。欲望に翳った瞳がとてもきれいで、背中がぞくりとする。
 言葉は自然と口から零れた。

「愛してる」

 暁の目がわずかに見開かれた。

 入社してすぐ昇進試験受けて、最初はもちろん落ちて。でも、半期ごとの昇進試験、懲りずにまた受けてたよ。なにをそんなに急いでるんだよって笑ったこともあったけど 

 フカミンの言葉を思い出す。

 よく勉強して、早く偉くなるんだ

 袴木の言ったとおり、暁は偉くなった。ほかの人たちよりもきっと、途方もない努力をして。

「ありがとう」
 涙がまた、目尻を滑って落ちていく。碧は笑った。
「ずっと想い続けてくれて、ありがとう」
 暁は碧を見下ろしたまま、苦く笑った。
「そう思うなら、もういなくならないでよ。やだよ俺、同じひとに二回失恋すんの」
 腕を伸ばして暁を引き寄せる。涙が止まらなかった。
「いちども、失恋なんてしてないよ」

 ごめんね、とくり返す。何度言ったって、傷を埋めることはできないかもしれないけど。

「碧」
 暁が、穏やかな顔で碧を覗きこむ。
「俺もう大人になったよ。生徒じゃない。守られてばっかのガキじゃない。だから安心して。俺、自分の決めたことに責任を持てるから」

 信じてよ。

 そう言って笑う暁は、たしかに大人の男の顔をしていた。
 碧は暁を見たまま小さく頷いた。
「ありがとう」

 もう、やめよう。一人で決めて、一人で負おうとするのは。

 このひとが好きだ。なにもやましいことなんてない。まちがってない。こんな深く強い気もちを教えてもらえたことがうれしい。

 暁が再びキスをはじめる。碧も目を閉じてそれに応じる。もう少し行けばすぐそこにベッドが敷いてあるのに、どちらも待てそうになかった。再び床に倒れこんだ。
 その時。
 
 ヴィーンヴィーンヴィーン。
 
 床に放っていた携帯が振動した。小川かもしれない。そう思って体を強張らせる。
「碧?」
 様子に気づいたのか、暁が碧を見た。
「電話」 
 わずかにそう言うと、暁はかまわずキスを落とす。
「後にしろよ」
 暁の舌がゆるやかに碧の口内に入ってきて、頭に靄がかかりはじめる。暁が碧の髪を撫でた。碧は暁の首に腕を回した。肩甲骨にフローリングの床があたって顔をしかめる。
 やっぱベッド行く? 暁が囁く。

 ヴィーンヴィーンヴィーン。
 携帯は執拗に振動し続け、止む気配を見せない。碧は暁を見た。暁は無言で首を横に振る。頭の後ろを抱えられて、キス。

 ヴィーンヴィーンヴィーン。ヴィーンヴィーンヴィ――。
「ごめんやっぱ出ていい?」
 軽く押し返すと、年下の恋人はムッと不機嫌そうな顔をした。その表情を愛しく思いながら、ごめんね、と再び言って携帯を取りに行く。

 小川だったらどうする? 
 自分に尋ねる。

 もしそうだとしても、毅然と答えるだけだ。最初からそうするべきだったんだ。

 ディスプレイに表示された名前を見て、え、と目を見開く。

 瀬崎さん

 そこには転職エージェントの名前が表示されていた。
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