元教え子は現上司
「ここ、かぁ」
 株式会社ウィング・エデュケーション。ベンチャーと言うからどんな怪しい雑居ビルに入ってるのかとおもいきや、意外にも自社ビルのようだった。

「けっこうきれい」
 六本木通り沿いに建つそのビルを見上げて呟く。ずいぶん高い。何階建てだろう。目算で八、九、十、と数えて、バカらしくなって途中でやめた。

「久松さん! 書類審査通りましたよっ」
 瀬崎がうれしそうに碧に報告してきたのは昨日のことだった。碧から応募しますと言った覚えは無かったけれど、いつの間にか勝手に書類を送られていたらしい。こうなったら数打ちゃ当たる、ということなんだろう。実際問題、切り崩して使っている失業手当だけではそろそろ限界だった。どこでもいいから早いところ就職したい。

 ベンチャー企業らしく、昇進が勤続年数とイコールでないことがウリという。けれどそれは翻っては、自分のように年齢だけむだにとった女性は厄介がられる可能性も高い。通された会議室で、瀬崎からもらった企業ファイルを見ながら面談の相手を待った。

 コンコン、とノックの音を聞いて、慌ててファイルを鞄にしまって立ち上がる。
「こんにちは」
 男性社員が二人入ってきた。

 一人は、めがねにネクタイ無しのスーツの柔和な顔立ちの男性。同い歳くらいだろうか。
 そのすぐ後ろの男性は、ネクタイもジャケットもない、無地の白シャツにチノパンという姿だった。俯いているから長い前髪がすだれのように顔に落ちて、表情はわからない。

「人事担当の長谷です。よろしくお願いします」
 スーツの男性がニコリと笑う。穏やかそうな笑みに、緊張が少しほぐれたのを感じる。よろしくお願いします、と答えて頭を下げた。

 長谷が、それでは早速、と腰かけるなり履歴書に素早く目を通していく。この時間はいつも背骨の辺りがムズムズする。自分の半生を、はじめて会った人に丸裸にされる感覚。あんな紙一枚に収まりきらないことが色々あったと思うけど、それでも案外収まってしまうもんだな、とも感じている。

 片肘を突いた長谷が、指先を口元にあてて頷きながら尋ねる。
「最初の職場は市立高校の教師なんですね。その後が千葉の予備校」
「はい。国語の講師をしていました」

 二十ニ歳で学校から逃亡するようにいなくなって、誰も知り合いのいない予備校で働き始めた。また高校生の相手をすることに不安もあったけど、新卒二ヶ月で職場を辞めた自分に選択肢なんてなかった。選択肢がないという点では今も同じなんだけど、あの時には今と違って若さという大きなアドバンテージがあったな、と面接中なのに余計なことを考えそうになる。

 次に勤めたのは高校生向けの予備校だった。業界最大手といわれる、CMや駅の看板にもその名前を出している有名な予備校。生徒はやる気に満ちていて、生徒たちを受け止める講師にも熱意と独特のパワーがあった。肉体的にも精神的にもハードだけど、目標が明確な分やりがいもある。

 このままずっと講師やれるかも。そんな風にも思ってもいた。
 それが半年前までの碧だ。

 長谷が履歴書から顔を上げて尋ねる。
「なにか理由があってお辞めになったんですか?」
 無いわけないでしょ、三十路過ぎの就活なんだから。笑顔のまま心の中で答える。
 
 ふいに心に浮かぶ、残像。
 響きわたる悲鳴と泣き声。探るようないくつもの視線。
 
 ニコリと笑ったまま口を開く。
「長いことお世話になった大切な職場で、学ぶこともとても多かったですが、今後は培ってきた経験を別の形で活かすことができればと考えまして」
 
 最初から御社みたいな会社に入りたくて就活してました、というニュアンスで言ってください。瀬崎の言葉を思い出す。あと、足組まないでくださいよ。
 
 三十歳を越えた就職活動がこんなに大変だなんておもわなかった。不況なんだなぁとしみじみと思う。
 どこも採用条件がほとんど三十歳以下。三十以下と三十超えで、なにがそんなに違うんだと尋ねて歩きたいくらい募集数が少ない。
 ホントもうどこでもいいから採用してよと思いながら、どうせここも無理だろうなぁ、と思ってる自分もいる。ビルきれいだし。規模大きそうだし。自分には不釣合いな環境だ。
 
 あぁこれから帰ってまた瀬崎に報告するのが憂鬱だなぁ、とおもっていると、
 
 プッ。
  
 唐突に、噴き出す音が聞こえた。視線を正面の長谷から、声のするほうに向ける。
 
 長谷ではない、もう一人の採用担当者が下を向いて肩を震わせている。さっきから一度もしゃべってないから、存在を忘れかけていた。
 その人が、下を向いたまま握りこぶしを口元にあてている。長い前髪が表情を隠しているけど、これはどう見ても。

 笑っている。

「…………え?」
 おもわず真顔になる。なんでこの状況で、笑ってるの? このひと。

「おい」
 突然のことに、長谷も驚いてそのひとを諌める。
「いや」
 そのひとが、初めて口を開いた。
「すっげ、心こもってねぇなーって思って」

「…………は?」
 聞き間違いかと思った。


 クックックッ。

 その人は笑いながら背筋を伸ばした。長い前髪をかき上げる。

「あんた、相変わらずうそつきだな」

 は、という言葉が口の中で止まる。前髪の向こうから、意外なほど大きな目がこちらを見つめていた。とてもまっすぐに。

 どくん、と鼓動がひとつ鳴った。記憶のフィルムが再生されて、ある人物で止まる。

 ――――碧。

 声を聞いた気がして、くらりと眩暈を覚える。

 いや、まさか。

「おい、なんてこと言うんだ」
 長谷が焦った顔でその人と碧を交互に見る。

「紹介遅れてすみません。彼、募集かけてるコンテンツサービス事業部のリーダーなんですが、失礼なこと言って本当に申し訳ないです」
 いえ、と口の中で答える声はかすれていた。長谷の横で、そのひとはじっと碧を見ている。
 
 背中を汗がつたう。
 ちがう、ちがう。
 そんなわけ。

「遠野と言います。はじめまして」
 そのひとは、碧を見て笑みを浮かべた。
「このたびは、弊社にご応募いただきありがとうございます」
 頭の中が真っ白になった。

 ――うそ――。

 先生。

 あんたが好きなんだ、先生。

 笑顔が甘いお菓子のようだった。Let it Beを聞きながら、小生意気な表情で笑う。
 
 暁。
 
 八年前に別れた恋人で――教え子の、遠野暁が碧を見つめていた。 
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