元教え子は現上司
「それじゃ、これからよろしくお願いします」

 担当者は資料を閉じると笑みを浮かべた。暁と碧も椅子から立ち上がり、頭を下げる。
「こちらこそよろしくお願いします」
 
 ビルの前で、暁と同い歳くらいの担当者は意気込んで言った。
「僕、『ヒラメキ』に期待してるんですよ。がんばりましょうね」
 顧客というより同僚のように接してくる担当者に、暁も笑顔で頷いていた。
 
 スカイプを使った講義やeラーニングを軸とした、ネット上の学習塾。大学に在籍しながら一人でネット塾を開講したという若き経営者であり担当者の彼は、碧たちが紹介する学習ソフト「ヒラメキ」に強い興味を示してくれた。

 紅林学院と比べると、まだまだ売上も規模も小さい。それでも新しいことに挑戦しようと意気込む姿に刺激を受けた。
 
 良い出会いになりそうだ。そんな予感に胸がふくらむ。

「ちょっと寄り道していい?」
 ビルに背を向けて歩きはじめると、ふいに暁が言った。腕時計を見ると、十二時少し前。早めのランチでもするんだろうと思い、頷いて後に着いて行った。

 駅前を越えて、商店街を抜けた大通りを横に逸れれば、静かな住宅街が立ち並んでた。駅周辺にあった定食屋も喫茶店もない。碧は少し戸惑って尋ねた。
「どこ行くの?」
 碧の問いを、暁はまぁまぁと受け流しながら進んでいく。そのまま住宅街の真ん中まで来た。

 ねぇ、と重ねて尋ねた時、暁が振り返った。
「ここだよ」

 角に立つ、三階建てのアパート。割合新しく、タイル地の壁は光沢のある薄いグレーでできている。手入れされた生垣に咲く花が、アパートの前庭を柔らかく囲むように咲いていた。ベランダに干された洗濯物が、光を吸いこんで白く揺れている。

 暁は扉を押して中に入ると、エントランスに設置されたオートロックの前に立った。ランチではなく、個人向けの訪問販売だろうか。そう思っていると、暁はオートロックに取り付けられた鍵穴に鍵を差し込んだ。ウィーンと音がして、自動扉が開く。暁は振り返ると、目を見張ってる碧の反応を面白がるように笑った。

「俺んち、ここ」

 えっ。声が喉の奥で出た。
「どうしたの、忘れ物?」
 暁は答えず、いいからいいからと肩を押されてエレベーターに押しこめられる。
 三階で降りると、暁は正面の扉の鍵を開けた。
「入って」
 おずおずと玄関に足を踏み入れる。その時一瞬なにか違和感を感じた。その正体を追う前に暁が部屋に上がってしまったので、慌ててその後ろに着いて行く。

 玄関のすぐ右手に洗面所と風呂場、隣にドアが閉じたままの部屋、正面はリビング用のスペースのようだった。
 リビングに足を踏み入れて、

「――――え?」

 そのままピタリと止まる。
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