それは、一度終わった恋[完]

「実は漫画描いてるんです、私」

「え、まじ?」

「まだデビューしたてで、駆け出しですけど……」

ポーカーフェイスだと思っていた彼が、目を見開いて初めてちゃんと私の顔を見てくれた。綺麗な顔がやっとこっちを向いたことがなんだか嬉しくて、私も初めて一之瀬さんの前で笑った。

「内緒ですよ」

「そんな秘密、俺に話しちゃっていいの」

「んーわかりませんー、酔いが覚めたら死にたくなってるかもしれません」

「へえ、でもいつか読みたいな、売れたら教えてね」

そう言って、茶色の瞳を細めてから、彼は私の手から缶チューハイを奪って自然にそれを飲んだ。

こっちにも新しいのありますよ、と差し出したが、お前弱いのに飲み過ぎ、と、差し出した缶チューハイを頬にぴとっと押し付けられた。冷たい缶チューハイを当てられて初めて自分の顔がかなり火照っていたことに気づいた。それから、一之瀬さんは意外とよく笑うということにも気づいた。

「そういえばうちのサークルにも、小説家の子がいるらしいよ。なんだっけ、いのまりとか言われてる子」

「いのまりさんですか?」

聞き取れた単語だけを言葉に出すと、全然脳に届いてないな、と、呆れたように彼は吐き捨てた。

「毎週木曜日、サークルの中の漫画好きとよく飲みながら漫画談義してるんだ、今度来なよ」

「え、行きたいですっ」

私が即答すると、彼はまた静かに茶色い瞳を細めた。

なんだかその瞳の色が、鮮やかに紅葉したもみじのようで、綺麗で、見惚れてしまった。

「一之瀬さんって、秋生まれですか?」

気づいたら出ていた言葉に、自分でも驚いた。私の突然の質問に彼自身も少し驚いているようだったが、さっきはあまり深く触れてはくれなかった名前について、ゆっくりと説明しくれた。

「俺の地元秋田でさ、俺が生まれた時、丁度たわわに実った黄金色の稲穂畑を風が撫でて行く様子が、まるで金色の海のようだったから、〝稔海(トシミ)〟って名前になったんだ。ほら、実るほど頭を垂れる稲穂かな、とか言うだろ? 人格者ほど謙虚であれ、という父の願いも込められているらしくてね、まあ、ただの稲穂畑を稔る海と表現するなんて、親父も結構ロマンチストだなと思ったよ」
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