マネー・ドール -人生の午後-
「久しぶりだね」
「どうも」
 日本とイタリアを行ったりきたりしている田山は、すっかりイタリア人化していて、もはや日本人とは思えないほどの、優男ぶりだ。
 田山は俺の隣に座り、なんですか、とぶっきらぼうに言った。
「ニュース、見た?」
「ええ、まあ。大変、でしたね」
「あの死んだ秘書って人はね、俺の恩人なんだ」
「そうですか」
「俺の悪行も全部被ってくれて、こんな俺を、唯一見捨てずにいてくれた」
 田山は、何も言わず、俯いている。
「離婚、しようと思う」
「……無駄な、正義感ですね」
 わかっている。田山は、俺の考えていることを、しようとしていることを、俺が、今から言うことを。
 なぜなんだ。なぜ、お前はわかるんだ。お前は、真純のことも、全部わかっている。恋人で、夫の俺は、何もわからなかったのに、なぜ、お前は……
「次は、いつ行くの」
「こちらでの仕事が一通り終わったので、しばらく向こうに住もうと思っています。今週の金曜日に、発つ予定です」
「移住、するのか?」
「プロジェクトは五年計画なんです。その間に、向こうで仕事ができるようになれば、そのつもりです」
 イタリア……遠いな……でも、いっそのこと、そのほうがいいのかもしれない。
 誰も真純のことを知らない所で、こいつと二人で、新しい生活を始めたほうが……。
「連れて行って、やってくれないか」
「……構いませんよ」
「ありがとう」
 俺は、カバンから、札束が三つ入った、封筒を出した。
「旅費と、当面の費用にあててくれ」
 でも、田山は、それをちらりと見て、不機嫌に、吐き捨てるように、言った。
「気に入らないな」
「もちろん、これからのことは、責任を持つ。これは、当面の……」
「だから、わからないんですよ」
「え……」
「そんなものに頼っているから、大切なことがわからないんです。見えないんですよ」
 田山は、クールに、でも、強く、言った。
「あなたは何もわかっていない」
「真純を巻き込むことはできないんだ。もう、この生活もさせてやれなくなる。真純を不幸にはしたくない」
「真純さんにとっての不幸が何か、考えたことがありますか」
真純にとっての、不幸……それは……
「そうですね、こんな人の妻でいることは、不幸でしかありませんね」
そうだ……俺といること自体が、もう不幸なんだよ……
「真純を……愛してるんだよな」
「いいえ、愛しては、いません」
「そうか……」
「でも、許されるなら、俺は真純さんを、愛します。あなたよりもずっと、俺は、真純さんを愛します。あなたよりも、幸せにします」
 田山は、真剣だった。あの時の俺のように、その場逃れの返事じゃなくて、本気で、俺に向かい合っている。
「真純を、幸せにしてやってくれ」
 あの日、杉本はこうやって、俺に頭を下げた。恥も外聞もなく、いい加減に、大切な恋人を奪った俺に、涙を流しながら、頭を下げた。
「……ふざけるな……」
「だから、金のことは、俺が責任を……」
 田山はため息をついて、立ち上がって、俺の胸ぐらを掴んで……
「最低だな!」
 四十三の、高そうなスーツを着たおっさんは、モデルみたいな格好の三十八のおっさんに、殴り飛ばされていた。遊んでいたちびっ子が、俺の周りに来て、おじさん、大丈夫? と聞いてくれて、慌ててお母さん達が、ちびっ子を引きずって行った。
 目の前の田山は、人なんて殴ったことがないんだろう。俺を殴った右手を痛そうに庇っている。
「前々から最低の奴だと、思ってたけど、ここまで最低だったとはな!」
「ああ、俺は最低だよ! 最低の男なんだ! だから、だから……真純を……」
 砂まみれの俺は、また泣いていた。今日は泣かないと決めていたのに、俺はまた、泣いている。地面に座り込んで、田山の足元で、情けねえな、俺は、本当に……
「こんな最低な情けない男に、真純は縛られてたら、ダメなんだよ」
「ほんとに、何もわかってないんだな、あんたは」
「わかってるよ、俺が、真純を、幸せにしてやれないことくらい」
「……幸せにしますよ。あなたより、ずっと」
「金は……」
「真純さんと、話し合ってください。俺は受け取らない」
 俺は立ち上がって、砂を払って、指輪を抜いた。
「これ、捨ててくれないか……自分じゃ、無理だから……」
「わかりました」
田山はクールに言って、それを、ジャケットのポケットに入れた。
「では」
「頼むな、真純のこと。あの、あいつさ、寒がりなんだよ。イタリアって、あったかいよな? それと、あいつ、一人だと、ちゃんと飯食わないから。できるだけ、一緒に食べてやってくれ。それから……」

 真純……真純……俺……真純……お前のこと……

「……朝が、弱いんだよ……起こして、やってくれな……寝るときは、寂しがるから……手を……手を、つないで……」
「わかりました」
田山はそう言って、俺にハンカチを出してくれた。
「……返していただなくて、結構ですから」
……鼻水、拭いたから?
「愛して、やってくれ」
「はい」
「好きって、何度でも言ってやってくれ」
 その言葉に、田山は、ふっと、笑った。
「頼むな……」
「佐倉さんも、お元気で」
 俺は、右手を出した。田山は、ちょっと、その手を見て、俺の右手を握って、俺達は、軽く、握手をした。
 そのまま田山は何も言わず、プリウスに乗って、クラクションも鳴らさずに、いなくなった。だから俺も、お母さん達の視線に耐えられなくなって、ベンツに乗った。

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