マネー・ドール -人生の午後-

(3)

 月曜日、私は、一週間ぶりにスーツを着て、手帳に挟んだ退職届を持って、慶太と家を出た。
 いつもの時間、いつもの場所。もう、ここで降りるのも、今日が最後ね。
「十八年間、おつかれさま」
十八年か……あっと言う間だったな……
「ありがとう」
 私達は、いってきます、のキスをして、慶太は、また後でね、って言って、車を出した。

 退職の手続きは、あっさり終わって、上司や先輩に挨拶をして、最後に、企画部のドアを開けた。

「今日で、退職することになりました。みんな、今まで、本当にありがとう。お世話になりました」
 田山くんが手配してくれてたのか、大きな花束をいただいて、みんな、俯いて、泣いてくれてる。
「部長……嫌です……」
 若い女の子達が、泣きながら私の周りに集まって、男の子達も、口々に、辞めないで下さい、とか、納得できません、って、言ってくれる。
「みんな、ありがとう。それだけで、私、満足だよ」
 でも、田山くんは、一人、デスクに憮然と、座っていた。

「やあ、佐倉くん。今日で退職だってねえ」
 鎌田さん。元、上司。新しい、企画部長。
 ずいぶん、うれしそうねえ。
「長い間、お世話になりました」
「本当にねえ。顔しか取り柄のない君を、どれだけ僕がフォローしたか。恩知らずってのは、こういう運命なんだねえ」
 嫌味全開で笑う鎌田さんを、みんなが唇を噛んで、上目遣いで見てる。
 みんな……ごめんね。私が、不甲斐ないから……
「どうやらこの部署は甘やかされてるみたいだね。まったくやる気が感じられない。就業時間が終わったらさっさと帰っていく。僕が鍛えなおしてやらないとね」
 ああ、そうだったそうだった。やることないのに、無駄に長い時間、会社にいればいいと思ってるタイプ。
「就業時間内にやるべき仕事を仕上げる。それも能力では? そんな昭和なやり方では、もう誰もついてきませんよ」
 あ、私ったらつい。
 でも、私のことなら何言われてもいいけど、この子たちのこと、そんな風に言うなんて許せない。
「生意気な女だ。最後まで気に入らん!」
「あなたに気に入られたいなんて、今まで一度も思ったことありませんから」
 ふん。バッカみたい。仕事なんてできないくせに。人脈だけで生きてるくせに。
 でも、こういう人が、残念ながら生き残るのよね。私、ヘタね、ほんとに。
 昔もこの人とは、どうも合わなくて、こうやって火花散らしたっけ。

 ずっと黙っていた田山くんが、立ち上がって、みんなに言った。
「さ、もう、仕事に戻って」
 そう。いつもこうやって、私と鎌田さんの間に入ってくれた。
「田山くんの言う通りよ。みんな、仕事仕事。私がいなくても、自分のために、努力してね。会社のためじゃなくて、自分のために、頑張って」
 あれ? ちょっと、あてつけぽかった? 鎌田さん、すごい顔で、私を睨んでる。
 そして、上司として、社会人として、下げたくない頭を、下げる。これが最後。最後の、はぎしり。

「鎌田部長。これから、どうぞよろしくお願いします。彼らはとても優秀な若者です。どうか、自由に、強く、大きく育ててあげてください」

 不思議と、涙は出なくて、なんだか、肩が軽くなって、気が抜けて、足がガクガクする。
 引き継ぎのデータを田山くんに渡して、ああ、終わった。田山くんもいなくなる……こんなデータ、もういらないね。新しくやっていけばいい。
 私の時代は終わったんだよね。
「じゃあ、みんな、元気でね。お世話になりました」

 ああ、終わった。終わったよ、慶太。
 私……負けてなんか、ないよね。これで、いいんだよね。

 みんなが涙を拭いながら、震えた声で、お世話になりましたって、頭を下げて、ずっと見送られながら、私は、企画部のドアを閉めた。

 さよなら、みんな。さよなら、私のサラリーマン生活。……さよなら、私の十八年。

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