黒太子エドワード~一途な想い
7章 ベルトラン・デュ・ゲクラン
「やっとパリに戻れたか……」
 エティエンヌ・マルセルが惨殺された7月31日から三日後の8月2日。
 パリを離れてコンピエーニュまで行き、そこで三部会を招集した王太子シャルルは、兵を率いてパリに凱旋した。
「次は、ここを拠点にしての改革だな。 まぁ、あの時騒ぎを起こした張本人はもう始末されているらしいから、あの時よりはスムーズにいくだろうが」
 少し荒れた感じはするものの、懐かしいルーブル宮に戻ってくると、王太子シャルルはそうつぶやき、にやりとした。
 この年の1月のポワティエの戦後処理で、ロンドンから父のジャン2世の身代金として、400万エキュが請求されたが、これは当時のフランス国家予算の10年分以上の莫大な額であった。
 それゆえ、フランスは最初から支払うつもりが無かったと思われるが、明らかになるのは、1年以上経った後のことであった。
 王太子シャルルのことはこれ位にして、この時期に台頭してきたフランス騎士、ベルトラン・デュ・ゲクランについて述べておこう。

 ベルトラン・デュ・ゲクラン。
 ゲリラ戦を得意とし、イングランド軍の攻勢に押されていたフランス軍のふりを盛り返したその男は、実は、見た目があまり良くなかった。
 「鎧を着た豚」だの「ブロセリアンド(=地名)の黒いブルドッグ」だのと実際に呼ばれていた位なので。
 しかも、若い頃は「乱暴者」としても四垂、馬上槍試合で大暴れしたらしかった。
 まぁ、「大暴れ」という位なので、勝っていたのだろうが。
 そんな彼も、一応、ブルターニュのデュナン近郊のラ・モット・ブローン城主ロベール2世とサンスの女領主ジャンヌ・ド・マルマンの息子であった。つまり、地方の貴族の息子であった。
 そして、シャルル・ド・ブロワに仕えていたのだった。
 そう。あのブルターニュ継承戦争で、ジャン・ド・モンフォールと争っていた、あのブロワに、である。
 といっても、モンフォールの方はすでに1345年に亡くなっているので、ベルトラン自身も1353年にはブロワではなく、フランス王の為に働いていたと言われている。
 正式に騎士に叙任されたのは、その翌年の1354年4月10日であったが。
 モンミュラン城において、コー地方の騎士にして、カーン城主のウスタシュ・デ・マレの手により、叙任されたと言われている。
 正直言って、暴れん坊で型破り、大会戦を避け、ゲリラ戦と焦土作戦(文字通り土地を焼き、相手に補給をさせない作戦。防御向き)をメインでやってきたデュ・ゲクランが、それほど「騎士」というものに固執したとは思えないが、シャルル5世等、それを「使う」側には騎士であることが必要だったのかもしれない。
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