ルードヴィヒの涙

ローテンブルグの市庁舎の塔からの眺めは、やはり拓人を感動させた。その日も七年前と同様に深い緑が澄んだ空気の中で際立ち、なだらかな丘を彩っていた。空はぬけるように青かった。

ローテンブルグは高いところから見ればわかるとおり、決して大きくはない、むしろ小さな街であった。

しかしそこに歴史的建造物や色鮮やかな木組みの家々が点在し、訪れるものを魅了した。
まさに「中世の宝石」であった。

七年前、ここの市庁舎の最上部にある塔の見晴らしから、遠くの丘陵地帯をバックに詩音を撮った写真は、拓人のお気に入りであった。そしてその写真は「ほんのしばらくの間」ふたりの住まいのリビングに飾られていたのだった。


拓人が初めて訪れた詩音が両親と住む家は、世田谷の閑静な住宅地の一角にあった。
拓人がその家の前に立つと、そこは二階建ての歴史を感じさせる洋館であり、壁にはつる性の植物がほぼ全面に絡まっていた。

陽当たりの良い南側の庭には大きな蜜柑の木があり、そのほかにもう一本、拓人にはわからない品種の大きめの木が緑豊かに繁っていた。

とても印象的な造りであった。拓人はなにか、避暑地の外国人の家を訪ねたような気持ちになった。                

拓人が詩音の実家を訪ねたその日は、「外国人墓地でソフトクリームを食べた日」から、
三週間が過ぎていた。


初めて会う詩音の両親は、ともに学識と知性を感じさせる人で、しかも充分な奥ゆかしさも具えていた。

拓人は居間に通され、詩音から両親を紹介された。            

居間にはゆったりとした、しかも充分に貫録のあるソファーが置かれており、そこに拓人と詩音が並んで座り、そして詩音の両親が向い合せに座った。

五歳年上だと聞かされていた姉は外出をしているのか、留守の様子だった。

その部屋には、品の良い調度品が幾つも飾られていたが、しかしそのなかで拓人の心を最も惹いたのは、壁に掛けられていた能面であった。

拓人は十九歳のころに「花伝書」を読み、能に強く惹かれるようになっていたのである。
その面(おもて)は「増女」だった。

その増女の面はこの洋館の家に、そしてこの居間に凛とした落ち着きと張りを与えていた。

そして小面や若女の面ではないことが、詩音の父親の内面を象徴している、拓人はそのように感じたのであった。           

初めて顔を合わせた詩音の父親と母親は、拓人のことについて、いきなり「あれやこれやと」詮索するような態度は一切取らなかった。

人への接し方に、節度を持ち合わせた人たちだった。

自分に充分な時間と余裕を与えてくれた二人を、拓人は好きになれそうだ、と思った。            

詩音の母親が用意してくれた紅茶を飲みながら、四人は多少の緊張感をそれぞれが持ちながら初めての顔合わせを楽しんだ。

最初に拓人が自己紹介をして、そのあと詩音はおおまかなふたりの出逢いから今に至るまでを両親に話して聞かせた。

詩音の両親は、正直に言えばまさか自分の娘が異性と交際をするようになるとは思いもよらなかった、という素振りであった。

詩音は休日、拓人といつもどのようなところに行き、どのような時間の過ごし方をしているのかをこと細かに両親に説明した。

詩音の父親も母親も、そこまで細かに話さなくても、というような表情をしてふたりで顔を見合わせていたが、それでも共にその詩音の話を溢れそうな笑みをたたえながら聞いていた。

ふたりがほとんど毎週、図書館に入っていると詩音が話すと、詩音の父親も
「私も、若いころは図書館に入り浸っていましたよ」
と昔をなつかしむように語った。

詩音の父親も、相当な読書家であるようだったが、
「私の場合は、ほとんどが『実用書』のようなものです」
と言った。

「実用書は文学作品とは違います。人を大きく豊かにするのは、やはり優れた文学作品です」
と、詩音の父親は語った。

事実、拓人が何気なく居間の書棚に目をやると、そこには経済書や会社年鑑などで隙間なく埋め尽くされていた。

そのあとは特に「主題」と呼ぶべきものの無い話が取り留めもなく交わされて、誰しもが「ひと段落ついたのか」と思い始めたころ、詩音の母親がテーブルの上のティーセットを片付けようと立ち上がりながら、拓人と詩音に話しかけた。            

「詩音から聞いているとは思いますけれど、この子は幼い時からピアノを習っておりましたの。詩音、もし中町さんが御嫌でなかったら、お聞かせして差し上げたらいかがかしら?」

父親は終始絶やさぬ笑顔を湛えたまま、パイプを吹かしていた。           

「聞いているとは思いますけれど・・・」 
と言った詩音の母親の言葉が、なぜか拓人の心に教会の鐘のように鳴った。

彼は、詩音からそのような話は聞いていなかったのであった。         

「そうですね、是非」           
と拓人は
「それも詩音らしいことだ」
と思いながら詩音と母親に答えた。

詩音は拓人を見ると、
「そういえばそんな時間の過ごし方もあるのだ」
と今しがた気がついた様な表情を見せて
「それでは、ご案内しますわ」
と言い、拓人を二階の自分の部屋に通した。      


ローテンブルグの街を一望できる市庁舎の塔から降りてきた拓人は、次はどこへ行こうかと決めかねていた。日光はあたたかく、眠気を誘うくらいであった。

聖ヤコブ教会へはどうしても行ってみたい、と思っていたが、そこへは夕暮れ時に訪ねるべき、と考えていた。

「あの祭壇は、強い陽射しの残る中で見るべきものではない」

拓人はそう考えていた。

するとまだ早すぎる、と思った拓人は七年前には見ることの出来なかった城壁に行き、少しその上を歩いてみようと考えた。

彼はガイドブックを取り出し、城壁への登り口をさがした。


二階の詩音の部屋は陽当たりが良く、先ほど見えた庭の蜜柑の木が良く葉を繁らせて、詩音の部屋を覆うように配置されていた。

薄いレースのカーテン越しにうかがえる外の様子は、すでに初夏の趣を存分に湛えていた。外はかなり、暑くなっている様子であった。  

詩音は拓人を自分の部屋に案内すると、窓辺に置かれた小さな籐のチェアーに座るように言った。

「あなたには少し小さいかもしれないけれど。でも、我慢してくださる?」

詩音はそう言って小首をかしげた。
チェアーの前には、やはりこじんまりとした円形のガラストップのテーブルが置かれ、コーヒーカップ程度なら十分に置くことが出来た。

読書などをするときにここに座るのかな、拓人はそう想像した。

詩音は拓人を椅子に座らせると、黙ってピアノに向かい、鍵盤を開いた。鍵盤を開いてから彼女はチェアーに腰掛け、ゆっくりと指を触れさせた。
詩音のピアノは、綺麗な光沢をもったスタインウェイ&サンズのアップライトピアノだった。

「何を弾いてさしあげればよろしいでしょうか?お好きな曲はおありになって?」            
と詩音は拓人に好みの曲を聞いてみた。          

「何でも、僕は聴くよ。君の弾きたい曲であれば」

拓人は心より素直にそう答えた。すると詩音はしばらく考えるふうな仕草をしたが、やがてその曲は、まるで決められていたかのように詩音の指先から奏でられ、拓人をつつみこんだ。               
 
詩音はその曲を、アレグロで弾き始めた。それは拓人にとっては、初めて聴く曲ではなかった。今までに、幾度となく聴いていた曲であった。

しかし拓人は、瞬時にその曲を思い出すことが出来なかった。間違いなく、自分は耳にしていたのであるが・・・  
 
なかなか思いだせないまま数小節が進んだ。

そして、詩音の部屋のカーテンの隙間から入ったわずかな陽の光が屈折しながらどこかで反射し、やがて詩音の細く白い指先を輝かせた次の瞬間、拓人は
「あっ!」               
と声を上げそうになった。        

詩音がいま弾いている曲を、思いだしたのである。

それはまぎれもなく、モオツァルトの弦楽五重奏曲、K516であった。なぜ、すぐに自分はこの曲を思いだせなかったのか?

弦楽のための曲をピアノで弾いていたからなのか?いや、違う。自分は、詩音のこの曲に対する何かわからないが勁い思いに気おされてしまったのだ、だからこそ瞬時にはわからなかったのだ。              

 拓人はそう思った。
そして「この曲を、詩音はこのように弾くのか」
と。

拓人は、モオツァルトの憂いと深い不安をここまで繊細に、そしてそこから羽ばたきたいと願う気持ちを、決して「独りよがり」でも「恣意的」でもなく弾きこなす詩音に、あらためて深く魅せられていった。

それは、ただ単にピアノの技量に優れている、あるいは単純に美しいものに惹かれて行くという道程ではなく、世界中の誰しもが見ることの許されない、神秘的で深く青い洞窟の奥に引き込まれていくかのような感覚であった。

詩音はその曲を、時に疾(は)しる様に、そして時に充分な哀しみを湛えて鍵盤の上から紡ぎだしていったのである。

拓人は詩音のピアノを聴きながら、詩音がこの曲を選んだ理由を考えてみたが、やはり考えはまとまらなかった。

そしてやわらかな陽射しに包まれながら、やがて詩音のピアノは静かに幕を閉じるように終わった。

「詩音の内面には何があるのだろうか。そしてそこに自分は、果たしてたどり着くことができるのであろうか?」

拓人の心は今、そのことで占められていた。
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