どうぞ、ここで恋に落ちて

いちばん知りたいことをオアズケにされてモヤモヤする私を残し、樋泉さんはこれで言うことは言ったというような表情で再び歩き出す。

私はグッと黙り込んだまま、月夜を歩くその背中を見つめた。


やっぱりすずか先生が恋人なのかな。

そのくらい、言わなくても察しろってことかな。


自分の眉が切なさにハの字を描くのがわかる。

唇を噛み締めながら、先を行く樋泉さんの後を追って一歩踏み出したとき……。


「あっ!」


樋泉さんがハッとした声を上げ、慌てて振り返った。

彼の後ろ姿を眺めていた私は、とっさのことに反応できず、もしかしたら泣きそうな顔をしていたかもしれない。

そんな私を、樋泉さんの黒いアーモンド型の瞳がメガネの奥からまっすぐに見つめる。


「いちばん大事なことを言い忘れていました。だから、彼女は……すずか先生は、恋人ではないですよ。俺には今、お付き合いしている女性はいないから」


そこで一旦言葉を切ると、真剣な表情はそのままに、ほんの少しだけ迷うように視線を泳がせた。

次に目が合ったときには、心なしか眉間にシワが寄り、よく見れば形のいい耳が淡い赤みを帯びている。
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