百万本の薔薇
(二)松下という男
激しい雷雨の中、東京駅の時計は夜の九時を指している。久しぶりの外出をした松下だった。
電車からの乗降客と雨宿りのために留まった乗客たちで、構内は大混雑だ。
諦めて雨の中に走り出す若者たちが増える中、どこといって行くあてを持たぬ松下だ。
外出と言えば聞こえは良いが、実のところは自宅マンションから逃げ出してきた。
半年ほど同居生活を送っているユカリからの逃避だ。

今日も朝からパソコンに向かっていた。
隣の居間では、これみよがしに大音量で映画に見入るユカリが居る。
「あーあ、こんなことならお店を辞めるんじゃなかったわ」
松下に向かって大声で話しかける。しかし松下からはなんの反応もない。
腹を立てたユカリ、大きく足を踏みならしながら部屋に入った。
チラリとユカリを一瞥した松下だが、なんの言葉もなくモニターに目を戻した。

ユカリはその場に立って、じっと松下を睨み付けた。
しばらくの後
「どういうつもりなの、あなた!」
と、ユカリが口を開いた。
振り向くこともなく
「なにがだ」
と松下が答えた。
見る見るユカリの顔が紅潮し
「人の目を見て話しなさいよ。失礼でしょ、そんなのって」
と、きつい口調で詰った。

「大事な場面なんだよ、今。話なら後にしてくれ!」
 思わず怒鳴ってしまった。そしてうるさそうに、手で払う仕草を見せた。
「もう、頭にきた!」

そう叫ぶや否や、パソコンのコードをコンセントから引き抜いた。
画面の消えたモニターを見つめながら
「どういうつもりだ。今、どれだけの損失を出したか分かるか。
お前の年収分ぐらい、吹っ飛んだかもしれないんだぞ」
と、静かな声で言った。
「知らないわよ、そんなこと。あなたが悪いんだから」
口を尖らせるユカリに、松下の怒りが爆発した。
左頬に信じられない痛みを感じたユカリ、手に届く物を手当たり次第に投げ出した。
「許せない、許せない!」

ヒステリックに泣き叫ぶユカリに手を焼いた松下、ほうほうの体で部屋を逃げ出した。
ひとり取り残されたユカリ、その場にしゃがみ込んでしまった。自問自答を繰り返すが、答えは出ない。
“どこを間違えたの? 玉の輿に乗ったはずなのに…”
昨夜も口論となった。
中食と称される総菜類を並べるユカリに対し「たまには料理ぐらいしたらどうだ!」と、松下がこぼしたことからの口論だった。
家政婦じゃないんだから、と言い返したものの、己に非があることが分かっているユカリ、ただ泣き叫ぶしかなかった。

「あたしがどれだけの犠牲を払ったと思っているのよ。
ナンバーワンのあたしがお店を辞めて、ここに来てあげたのよ」
しかし松下の反応は冷たいものだった。
「なにが来てやった、だ。頼んだ覚えもないのに勝手に来て住み着いたんじゃないか。
ナンバーワンだ? ほのかに追い抜かれて、KAYの三人娘にも追い上げられて、青息吐息だったろうが。
ことみ・あかね、わかの三人だよ。俺の情報収集力をなめるなよ。
投資というのは、情報が命なんだよ。
そもそもあの店に通ったのは、なにもお前が気に入ったからじゃないんだ。あそこに通っていた…」

話し続ける松下の言葉が、ユカリには届かなくなった。
ナンバーワンではなくなっていたという事実、与えられていた特権を剥奪されたという事実、松下の元に逃げ込んできたという事実、それら全てを見透かされていた。
ユカリのプライドが、今、ずたずたに引き裂かれた。
ふらふらとテーブルを離れ、寝室に閉じこもった。

さすがに言い過ぎたと感じた松下、ドア越しに
「悪かった、ユカリ。言い過ぎたよ。今度、食事に行こう。
それからどうだ、もう一度パリに行かないか。明日にも相談しようじゃないか」
と、声を掛けた。
このことがあっての今日だった。
楽しみにしていたユカリに対し、松下からなんの話もない。
朝から夜になった今まで、株のチャート画面ばかりを見ている。

朝に声を掛けた折には、三台あるモニター画面の一つとして、旅行会社のサイトは出ていない。
ならば午後からにと思っても同じくで、そして夜になってもだ。
昨日の言葉はその場限りのことだったと、ユカリの気持ちが爆発した。
松下の居ない部屋で、独り取り残されたユカリ、これからのことを考えると不安でいっぱいになる。
自殺という文字が頭をかすめた。
“あてつけにやってやろうかしら”

しかしそれができない己であることは、ユカリ自身がよく知っている。
感情的になりやすいが、それとてすぐに収まってしまう。
そしてその因を分析し始める。
相手に非があってのこともあるが、その殆どは己の我がまま、思い過ごし、そして予測違いによるものだ。
そうなのだ、この分析癖が、ユカリをして突発的、衝動的行動をなかなか取らせないのだ。

「お前ならナンバーワンになれなくても、オンリーワンになれるさ」
何かの折に、松下がもらした言葉だ。
ユカリが「それって、歌でしょ」と詰め寄ると「ばれたか。でも、ほんとだぞ」と、真顔で言う松下だった。
“戻ろうかしら、また…”
早晩そうなりそうな気がしてくるユカリだった。

松下も又同じ思いにかられていた。
キャバクラに通って半年、そして同居生活を含めてもわずか一年の期間だ。
元々ユカリを指名したのは、ある意図があってのことだった。
観察力、洞察力のあることが条件だった。
はじめての入店時に、わざとみすぼらしい格好をしたのも、靴だけは高級品にしたのも、そのテストのためだった。

目立たぬ出で立ちで通い地味な金の使い方を続ける松下に対して、ユカリだけが上客だと判断した。
理由を問いただすと、「靴が高級だもの」と事もなげに言う。
そして松下の冗談めいた頼み事を、しっかりとこなしたユカリだった。
その情報で裏が取れたと判断した松下、株において大勝負を仕掛けて大金をせしめた。

なにも知らぬユカリに対し「ユカリが気に入った。パリにでも行くか?」と、褒美の旅行へと連れ出した。
有頂天になったユカリ、ここで大きな勘違いをしてしまった。
そしてそれが、今、ユカリを苦しめることになってしまった。
松下にしても疎ましさを感じ始めてきていた。
「そろそろだな…」
思わず口に出てしまった。
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