百万本の薔薇
(三)詰られる正男
観光特急しまかぜの車内、沙織の心内に焦りが生まれていた。
ここのところの正男とのぎくしゃくとした関係を修復したいのだ。
そのために、嫌がる正男を無理矢理に引っ張り出した。
ここのところの正男と言えば、何かというとホテルに入りたがる。
「それしかないの!」と詰る沙織に、平然として「若いんだ、俺たちは」と答える正男だ。

「草食ばっかりなのに、羨ましいわよ。あんまり拒否してると、浮気されちゃうわよ」
「浮気ならまだ良いわよ。逃げられちゃうわよ、その内。玉の輿なんでしょ?」
大学を卒業してからも続いている二人の友人との会話だ。
互いの彼氏を刺身のつまに月に一度は会っている、気の置けぬ二人からの忠告を聞いての旅行なのだ。
新幹線内では寝不足だからと眠りこけた正男だった。
名古屋での乗り換え時には、時間が押していて慌てて駆け込んだ二人だった。

先頭車両が大きなガラスを前面に配した見晴らしの良いハイデッカー車両となっていて、フロントビューの景色を贅沢に楽しめる。
横に一席プラス二席の車内は広々として豪華で、沙織の気持ちを浮き浮きとさせた。
しかし正男は相変わらず不機嫌な顔つきを見せている。
何が不満なのかと問い質しても、分かってるくせにと答えようとしない。

個室で予約した正男の思いは、沙織にも分かっている。
しかし一泊旅行なのだ、と沙織は考えている。
互いの気持ちのズレが、少しずつ大きくなっていることが気になる沙織だった。
前回のデートの折にも、ホテルへと言う正男に対し「ズルズルとした関係はイヤ!」と拒否してしまった。

その折、正男からプロポーズらしきことは言われたのだが
「今みたいなフリーターはやめてよ。キチンと就職してくれなくちゃ」
と嫌みに取られかねないことを言ってしまった。
すぐにその真意を話したが、正男の引きつった顔が変わることはなかった。 

結局のところ、ビュッフェ車両で昼食を摂ることになった。
沙織が伊勢エビ、正男は松阪牛のステーキを注文した。
舌鼓を打つ内に、次第に正男の機嫌も直り始めた。
沙織が渡す伊勢エビを食したところで「ごめん」と、思いもかけぬ言葉が正男から出た。
正男から沙織の口にステーキが入れられたとき、沙織の目から大粒の涙があふれ出た。

一旦は仲直りができたはずだった。
スペイン村で諸々のアトラクションを楽しみ、ようやくいつもの二人に戻った。
しかしジェットコースターでのことは、正男の意外な一面を見た思いで、一抹の不安を覚えさせた。
急降下する際に「ママ、ママ!」と絶叫する正男、笑いを取るためとはどうしても思えない沙織だった。

更に正男の不用意なひと言で、又しても反目し合うことになってしまった。
チャペルウエディングが執り行われていたサンタクルス教会で
「素敵! ここでの挙式なんか、想い出に残るでしょうね」
と、目をキラキラさせて沙織が立ち止まった。

沙織を喜ばせるつもりで漏らしたであろう正男の
「挙げちまうか、今日」
が、沙織には許せないことだった。
あまりに軽く言う正男に、沙織との結婚というものが、現実問題としてとらえられていないと感じられたのだ。

フラメンコショーを観るべく会場に入った二人だが、踊りを楽しむという雰囲気ではなかった。
そこかしこで会話の花が咲いているというのに、互いに視線を合わせることなくまた言葉を交わすこともなく居た。
出された飲み物を空にした正男が席を立とうしたとき「これからショーが始まるのよ」と引き止めた。

舌打ちしながら席に戻る正男に「マナーをわきまえてよ」と小声で言った。
無言のままステージに目を向けている正男に腹が立つが“まだ子どもなのよ、正男は”と己に言い聞かせる沙織だった。
父親は官僚であり母親も華道の師範だ。
絵に描いたようなセレブの家庭なのだ。多少の我がままは仕方ないと諦めている沙織だ。

いよいよショーが始まった。フラメンコに興味を覚え始めた沙織は、目を見開いてステージを凝視した。
正男には奇異な感じがしている。実のところ、サンバとフラメンコが混同してしまっている。
流れ始めたギター、もの悲しく切なく届いてくる。
重苦しい気持ちに襲われた正男、チラリと沙織に目をやった。
ステージにしっかりと視線を注ぎ、演奏に聞き惚れている。
膝の上で合わせられている手が、正男には邪魔だ。
キラキラと光って見える足が、正男にお出でお出でと呼びかけているように思える。
しかしその手が、正男を拒否している。

突如、万雷の拍手が会場に響いた。その登場を待ちかねたように、沙織もまた激しく手を打ち始めた。
何ごとかと目を上げると、二人のダンサーがステージに並んで踊り始めた。
目をこらしてみると、外人のようだ。
沙織の耳元で「有名なのか?」と聞くと「黙ってて!」と、ピシャリ。

正男に言ったのか独り言なのか「まず、セビジャーナスね」と、頷いている。
あくびをかみ殺す正男だったが、前方に進み出たダンサーたちが、床をタンタンと踏みならした。
腰を前後左右に振りながら、手の指をくねくねと回して踊る。
「うんうん」と頷く沙織、しかし正男にはなんの感動もない。

舞台の両袖から、一人ずつダンサーが現れた。手を叩き合いながら、床を踏みならして踊り合う。
互いに向き合ったダンサーたち、両手を高く上げてクルリクルリと回り合う。
よく見ると左右対称の踊りになっている。
そして迎え入れられるような形で、中央に進み出たスターダンサー。
五人が一斉にスカートの裾をひるがえしながら床を踏み鳴らす。
白い足に釘付けになった正男の視線の先に、日本人ダンサーを見つけた。
栄子だった。

素っ頓狂に
「おい、日本人じゃないか?」
と叫ぶ正男を、信じられないといった表情で
「静かにして! 恥ずかしいでしょ」
と、沙織がたしなめた。
周囲もまた、眉をひそめている。
頭を下げる沙織に対し、どこ吹く風とばかりにしれっとしている正男だった。
パンフレットを見て「松尾栄子か、友情出演?」と声に出す。
退屈さを紛らわす為なのだが、沙織には嫌がらせに思える。
「声にしないで!」と、苛立つ沙織だった。

その夜、狂ったように沙織を求めた正男だったが、沙織の胸には“これで終わりかも”といった漠然とした思いが去来した。
結婚相手としての条件は極上なのだが、正男という人間に違和感を、いや嫌悪感に近いものを感じ始めていた。
欠点をあげつらったらだめ、と己を戒めるのだが、どうしても消えない。
ならばと、長所を思い浮かべてみる。
優しい、裏を返せば優柔不断とも思える。
おしゃれ、といっても母親の見立てらしい。
裕福、親のことであり正男はフリーターだ。
結局打ち沈むだけの沙織だった。

正男が目ざめたとき、沙織の姿はなかった。
脇のテーブルに「先に帰る」との走り書きがあった。
沙織の行動が理解できない正男だった。
しかし満足感一杯の正男には、どうということもないことだ。
それよりも夢に出てきた栄子のことが気になっていた。

初めてのフラメンコという踊り、正男には衝撃だった。
「たかがダンスだろうが…」という見下した思いが、見事にくつがえされた。
栄子というダンサーがステージ中央に立つと、ギターの調子が変わり、激しいビートを奏で始めた。
カンタオーラの声が、地の底から響くかの如くに正男の耳に入る。
パンパンとリズムに合わせた拍手と共に、正男を釘付けにしていく。
タンタンと床を踏み鳴らして、悩ましく腰を揺らしながら手首がくねくねと動き、そして怪しげな指先が正男を魅了する。

激しく揺れるスカートの裾が正男の眼前に飛んでくる。
正男は、うっそうと茂る森林の中を彷徨っている。
今どこに居て、これからどこに向かうのか、それが分からない。
クルリクルリと回りながら、激しく空に叩き付けられるスカートが、正男の脳髄を刺激する。
食い入るように見入る正男の姿は、魅了ということばでは言い表せない。
激しく叩く靴音が、ややもすると金属音に聞こえるその音が、正男の琴線に触れる。

一切の俗界から遮断され、正男と栄子だけの異次元に飛び込んだ。
知らず知らずに正男の目から涙が溢れ始めた。
なぜ涙を流すのか、溢れ出るのか、正男にも分からない。
正男を包むバリアに邪魔されて、沙織は触れることもできない。
「正男、正男」と沙織が声を掛けても、答えることはない。
沙織の声が遠くで聞こえる。のぞき込む沙織の顔が、逆望遠鏡のように遠くに見えた。

うなだれて静止するダンサー、ギターも奏でることをやめた。
カンタオーラも沈黙した。栄子からしたたり落ちる汗が、ステージ上で飛び跳ねる。
大きな拍手の鳴り響く中、正男ははっきりとその水音を耳にした。
正男を包み込んだ踊りに「なんなんだ、これって。フラメンコっていうのは…」と、我に返った正男だった。
夢とはいえ妙に現実感を伴っていた。

沙織とは、あの旅行を境として疎遠になった。
今はただ、自宅とバイト先を往復するだけの正男だった。
夕方に出かけて深夜の二時頃に帰り着くという日々を続けている。
母親の「身体をこわさないでね」という心配顔も、今はうっとおしく思えたりする。
襲いかかる淋しさが、母親に対する暴言となったりした。
「お父さんがね、就職先を見つけてくれたんだけど、面接に行って…」
「誰がそんなこと、頼んだ! 親のコネなんてみっともない。
その内、ぼくの実力を認めてくれる会社が見つかるさ。ほっといてくれ!」

しかし翌日には
「母さん。ぼくって、チャラ男なの? バイト先で店長に言われたんだけど…」
と泣きつく。
そして決まって
「今はチャラ男で良いのよ。後々それがきっと財産になるから」
と慰められた。
正男のざらついた気持ちも、そんなひと言で落ち着いてくる。そして自信が湧いてくるのだ。

突然に、栄子の踊る姿が目に浮かんだ。
五人のダンサーの一人に過ぎなかった栄子の存在が、右端に立って踊る栄子の存在が、日増しに大きくなっていった。
憂いを含んだ瞳が、深いブルーに打ち沈んだ瞳が正男を捉えたとき、正男を鷲づかみにした。
陶酔感に浸った表情の中、切なげな瞳が、正男をまさしく虜にした。

その日は週に一度の早出の日だった。午後三時から八時までのタイムスケジュールになっている。
以前ならば沙織とのデートとなる。しかし今は、誘う相手は誰も居ない。
慣れてきた筈の正男だったが、今夜に限っては人恋しさに囚われていた。
このまま自宅に帰る気にもならず、さりとて人混みの中を歩く気にもならない。
通りかかったタクシーに乗り込んでは見たものの、行く宛はない。
「とりあえず出して」言った矢先に、急ブレーキがかかった。
ヘッドレストに頭をぶつけた正男、そのまま車を降りた。
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