いきぬきのひ
 夕刻の駅は、直前のラッシュを控えどこか慌ただしかった。
「今日は、本当に、久しぶりに楽しかったです」
 なんとなく彼を直視できず、私はつい俯き加減になる。ちらりとのぞき見た彼は、屈託のない笑みを浮かべていた。
「……俺も」
 そう言うと、彼が私の手を優しく掴んだ。ふいに、さっきの唇の感触が思い出されて、つい、かぁっと、顔が真っ赤に火照る。おずおずと顔を上げると、彼が穏やかな笑みを浮かべて私を見つめていた。小さく深呼吸を一つすると、感情の赴くまま、私はぎゅっと、その手を握り返す。そして、そのまま彼の腕に寄り添った。
 突風と共に、電車がホームに駆け込んできた。
 目の前のドアが開くと、降りてきた若者達が私達の姿をみて、思い切り面食らっていた。私と彼は、顔を見合わせて笑ってしまった。

 心地よい電車の揺らぎと、彼の体温を直に感じながら、もう何百回と見てきた車窓の景色に魅入る。見慣れたはずのそれすらも、初めて見るような気分になるものだから、人間なんて、なんていい加減で単純なんだろう、呆れてしまう。
「あ、ほら。あそこ」
 ビルの狭間から顔をだしたのは。
「富士山」
「え、何処!?」
 こんなたわいないやりとり、それすらも新鮮で嬉しい。
 正直、決して若くはない私達の姿は、傍目にはさぞや滑稽に映るのだろう。でも、そんな事、一々気にしていたら何もできはしない。
 夫が望んだように、彼の分まで生き抜く事も。
 まして恋なんて、なおさら。
「あ、見つけたっ。しかも、なにげに赤富士風だし」
 彼が子供のようにはしゃぐ。
 いつまで。いや、いつまでも。こうして居られますように、と。遠ざかって行くセピア色の富士山に、柄にもなく祈る自分がいる。
「何、お祈りしたの?」
 彼の問い掛けに、私が答える。
「また、いきぬきできますように、って」

 そう、逃げたら、終わってしまうから。
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