いきぬきのひ

 私が研究所を辞めたのは、彼との間に在らぬ噂を立てられたから、というのは建前だ。
 当時の彼は今と変わらず見た目スマートで、しかも離婚したばかり。永久就職を夢見る腰掛秘書には、正に格好の獲物に映ったに違いない。そんな彼にまとわりつく私の存在は、彼女らにすれば邪魔者そのものだったろう。
 それでも最初は、軽い陰口程度だったから、こちらとしても余裕で無視する事ができた。むしろ、彼女達に関わる必要がなくて楽だ、と。そんな風にすら思っていたから、今にして思えば、自然と態度にも表れていたのかもしれない。
 そうして、生意気な秘書への虐めがエスカレートしていくのに、さほど時間はかからなかった。
 それはついに、業務へも影響し出した。回ってくるはずの書類が飛ばされる事などは、日常と化した。終には、期限前に提出した申請書類が、何故か未提出で期限切れを迎えるという事件がおきた。
 もちろん、彼はずっと私の味方で居続けてくれた。
 ところが今度は、それが仇となった。
 必要以上に私の事を庇う彼に対し、有りもしない事がまことしやかに囁かれ始めた。
 男と女の関係。しかも、私の存在が彼の離婚の原因で、二人は私の夫が亡くなる前からの関係だった、とか。
 確かに私達は、下世話な妄想をかき立てるには余りに条件が揃いすぎていた。手を拱いている間に、尾ひれは面白いように十重二十重とついていった。
 だけど肝心の彼は、つまらないゴシップだ、と全く動じもしない。それどころかむしろ、悪戯な笑みを浮かべて一言。
「それはそれで、面白いかもね」
 そう嘯いては、落ち込む私を遠巻きに慰めてくれた。
 だけどその時、嫌と言うほど気づかされた。
 時には悪態を吐きながら、時にはけんか腰にもなりながら、互いに共闘して過ごした時間が、私の中で大切なものにすり替わっていた事に。
 結局、自分も他の秘書と一緒という事実。
 いや、私の方がもっと酷い。死に逃げるしか無かった夫を、知らぬ間に裏切っていたのだから。
 後日、地下の書庫から紛失した申請書類一式が見つかった。
 彼は犯人を捜す、と息を巻いていたが、すでに私自身の良心が限界に至っていた。
「辞めます」
 逃げの言葉が、口を突いて出ていた。
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