私の優しい人
昔から誰よりも目覚めが良く、人を起こすのは僕の役割だった。

 家でも、学生時代の夏の合宿でも。


 僕を起こす人、ただ一人の記憶は、母親。


 階下からの物音。
 覚醒していく意識。
 階段をスリッパで上がる擦れる音。

 ドアが開き、僕の布団を剥がし、僕の名を呼ぶ。


 ――啓太、朝よ。そろそろ起きなさい。

 声さえ忘れてしまっていた母の声が、耳元で完全に蘇った。
 ちょっと低くて、言葉の最後が丸まった感じ。

 そうだ。こんな朝が僕にもあった。
 かつてはあったんだ。

 永遠にそこにあり続けると思っていた存在。
 ぱっと消えて無くなった。


 仕方がない僕がやる。
 僕がやった方が早いから。

 気にしてないよ、いいんだ。
 大丈夫だよ、僕が居るだろ。


 悲しみに暮れる時間は少なく済んだ。
 
 自然に出る言葉に僕の役割は上手くはまった。

 弟達の世話を焼く、時には父親の世話さえもする。

 僕は一人で起きられるようになっていた。
 当たり前だった朝はもう来ない。

 そう思っていた。


 幸せなまどろみから自分を引きずりだし、のろのろと目を開ける。
 見慣れない室内には、見慣れた彼女の顔。

 笑顔。

「おはよう。啓太さん」

「おはよう」
 耳に届く僕の声はしゃがれている。

 体がなかなか目覚めない。
 顔を擦り、体を起こす。

 彼女の顔にはもう化粧が施されていた。

「なんか……顔が、濃くなってる」
 僕はそう言って瞼が熱くなるのを誤魔化した。

 素顔の方が可愛いのにとは、敢えて言わなかった。

「もう。薄い顔ですいませんでした」
 拗ねて横を向いてしまった。

 ふっと笑うと、彼女は増々拗ねる。

 ごめんね。里奈ちゃん。
 僕はまだ君の前で格好つけていたいみたいだ。

「大好きだよ」
 彼女の背中を抱きしめて、匂いを思い切り吸い込む。

 少し気持ちが落ち着いてきて、風呂に向かった。

 好きな人に見守られ、何時しか泥のように眠り、緩やかに迎えられる朝。

 いいものを貰った。

 このデートのこの一瞬は、僕の記憶に焼き付いた。

 いい贈り物だ。
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