残業しないで帰りたい!
千葉から川崎まで電車に乗って、そこからバスに乗り換えて。
小学3年生の子どもには、けっこう勇気のいる長旅だったと思う。
東京駅で乗り換える時はあまりの人の多さに押し潰されそうで怖かったのをよく覚えている。
それでも、なんとか記憶を頼りに川崎の母親の実家にたどり着いた頃には、もう夕暮れになっていた。
闇が濃くなった薄暗いオレンジの夕日は寂しげで、家々の灯りが羨ましいくらいに眩しくて、とにかく明るい家の中に入りたかった。
思いきってインターホンを押すとしばらくして「はい」と母親の声が聞こえた。インターホン越しとは言え、久しぶりに聞く懐かしい母親の声。
早く会いたい。顔が見たい。
「お母さんっ」
インターホンに向かって大きな声でそう言ったけど、向こうからは何も聞こえてこない。
じっと耳を傾ける。
「……今すぐ帰りなさい」
静かな声で言い終わると同時に、ブチッとインターホンの音は切れた。
茫然とした。頭の芯が冷たくなるのを感じた。
なにそれ?
せめて家の中に入れてよ!
扉を両手でドンドン叩いた。
「お母さんっ?お母さん、開けてよお!お母さん!」
途中から泣き声になっていた。
扉の向こうで「お兄ちゃん?」って弟の声が聞こえて「向こうに行ってなさい」と母親の声が聞こえた。
祖母が心配そうに「入れてあげなさいよ」と言っている。
「おばあちゃん?いるの?中に入れてよ!お母さん、入れてよお!」
「翔太!もうここに来ちゃダメなの!すぐに帰りなさい」
ドンドンと扉を両手で叩き続ける。
「やだよお、入れてよ、お母さん!」
泣き叫んでも何度扉を叩いても、母親は奥の部屋に行ってしまったのか扉の向こうは静かで、扉が開くことはなかった。