大海原を抱きしめて


「熱なんて一晩寝りゃあ下がるっつの!」

「それは明日、熱が下がってから言う台詞です!」

「はぁ?」

「診療所、終わっちゃいます。だから早く!」


笠岡さんと私のやりとりを聞いて、谷上さんも未穂ちゃんも驚いた顔をして事務所から出てきて。

この人、熱があるんですけど。と谷上さんに伝えると、余計なことを言うなと笠岡さんが私を睨みながら見下ろしてきて。

懐かしい気持ちになった。

私が笠岡さんの気持ちに気づくまでは、お互い口を開けばこういうやりとりが当たり前だったから。

それが、今思えば心地よかったんだって気づいた。

久しぶりにまともな会話をしてる私たちを笑って眺めながら、谷上さんは言った。


「笠岡くん、香乃ちゃんに素直に心配されなよ」

「そうですよっ、これ以上香乃さん泣かせてどうするつもりですか?」


未穂ちゃんからも責められて、笠岡さんは荒いため息を吐いた。


「わかりましたよ、行ってきますって」

「香乃ちゃんについて行ってもらわなくても大丈夫?」


谷上さんはニヤニヤして笠岡さんに訊ねたけど、大丈夫です!と言い張る姿はまるで子供みたい。

追い出されるように帰らされた笠岡さんの背中を、"話"の続きをこっそり想像しながら見送った。

まだ信じていない。
はっきりと確認したんじゃないから。

でも、私に触れた笠岡さんのぬくもりを思い出すたびに、心臓がぎゅーっと締め付けられる。

あの時のお酒の匂いも忘れ去ってしまうような、苦しいほどに感じた笠岡さんの香りも、拍車をかけて。
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